上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(中)


前置き

(上)では、上野千鶴子氏の座談会記事に関わって多くの人の尊厳を傷つけたことへの反省と悔恨の意、『かがみよかがみ』編集部による対応の批判について書きました。先に前の記事に目を通してくださるとありがたいです。


いざ書き上げてみると結構なボリュームになってしまったので(中)と(下)に分けました。

(中)の内容としては、『セックスワーク・スタディーズ」を読んで考えたことが主になっています。セックスワーカーではない自分が無邪気に「読書体験」のみで考えを述べ、さらにスティグマを強化する危険性については注意しましたが、完璧に配慮が行き届いているかはわかりません。申し訳ありませんが、ご指摘くださると幸いです。

なお、(中)からは敬体ではなく、常体で書かせていただきます。

ポジション取り反省文にしたくない

『セックスワーク・スタディーズ』(SWASH編/ 日本評論社)によって強く突き動かされ、(上)を出した。

しかし、「自分の中の差別意識に気付いた」「自分の無知さに驚いた」「これからもこの問題について考え続けたい」そんな簡単反省三点セットだけでポジション取りに終始するのは嫌だと思った。謝罪の形だけ整えることのいかに容易なことか。

そこで、『セックスワーク・スタディーズ』に対して批判的で、『かがみよかがみ』セックスワーカー差別炎上についても述べている『許せないがやめられない SNSで蔓延する「怒りの快楽」依存症』(坂爪真吾著/ 徳間書店)も参照した。「とりあえずこの本を読んでおけば大丈夫」と安直な思考停止に陥って「もうこれでわかった」と満足するのを恐れたからだ。

だが、全てを見通したかのような神の視点で、Twitterでのジェンダーに関する炎上について煽った調子で書いてあるこの本を読み通すのは、心が痛かった。自分の中で丁寧に整理しながら読む必要があった、ということも書き添えておく。


「セックスワーク」は労働だ、という気付き  

座談会後のエッセイでセックスについて偉そうに語っている私だが、当該記事に批判が相次ぐまで、「セックスワーク」について考えることはなかった。そして、セックスワーク・セックスワーカーという言葉を使ったことも、聞いたこともなかった。

当然ながら、その言葉を知らなければ、セックスワークが労働だという認識もない。

奴隷や人身売買や結婚というシステムに含まれる買春と、仕事としての買春をはっきり区別しようという、働く側の意識から生まれた言葉が、『セックスワーク』だと私は考えている。(22頁)

と『セックスワーク・スタディーズ』では指摘されている。サービスに対して金銭の授受が発生する行為は、紛れもなく「仕事」である。考えれば考えるほど、なぜセックスワークは仕事だと思っていなかったのか、わからなくかった。

『かがみよかがみ』が巻き戻した時計の針

「セックスワーク」という言葉に聞き馴染みがないことに対して、坂爪氏は上に引用した自著でこのように述べている。

そもそも国内の性風俗の現場では、「セックスワーク」「セックスワーカー」という言葉自体、ほとんど使われていない。(中略)いずれも海外で生み出された外来語であり、国内においては性風俗の現場で働く当事者ではなく、主にジェンダー研究者やLGBT界隈の活動家、専門職の支援者によって用いられている言葉である。(234頁)

セックスワーカーが知らない言葉を、非当事者が知らなくても当然、という論だった。

しかし、『セックスワーク・スタディーズ』には、

日本でセックスワークという言葉を早い時期に取り上げたメディアの一つが『翻訳の世界』という雑誌だったのは、ある事柄を象徴しているように思えます。セックスワークという言葉を人々が翻訳し、理解するには、一定の時間とプロセスが必要だという現実です。(23頁)

とある。私が「セックスワーク」「セックスワーカー」という言葉に触れる経験がなかったのは、視野の狭さと不勉強という自分の至らぬ点が大きい。だが、同時に社会の人々にとって、「一定の時間とプロセス」がまだ充分ではないのではないかと思った。坂爪氏のような批判が出てくるのも、そのことが作用しているのではないか。

言葉や問題意識の普及が充分ではないことを、当事者の責任として押し付けるわけでもなく、逆に当事者不在で議論の俎上に載せるわけでもなく、どのように展開させてさせていくか。それこそメディアが大きな役割を果たす場面だと言える。

ただ、セックスワークは「論じる人のその時々の社会課題への関心に引き寄せて語られる傾向にある」(31頁)。擁護でも批判でも、労働の安全と健康をよくするために話されているか、が何よりも大切だという視点に立ち、慎重に進めていく必要があるだろう。

翻訳と理解のプロセスの過程で『セックスワーク・スタディーズ』という本が書かれた。それを知らず、また目も行き届いていなかった『かがみよかがみ』の座談会は、セックスワークを巡る歴史の時計の針を逆行させた形になってしまったと思っている。

難解な用語が多くてわからない、と当事者が言ったとしても

また、『セックスワーク・スタディーズ』の前書きにはどのような思いで同書が著されたかについて書かれている。

本書には、これまで「夜の世界」などと呼ばれ色物扱いされがちだった性風俗の仕事をきちんとアカデミズムの中に位置付けるだけでなく、当事者中心の研究を志向したいという思いも込められています。(3頁)

私が多くのセックスワーカーから強く勧められたことからも、この本がセックスワークに関わる人、学びたいと思っている人にとって重要な位置づけにあることがわかる。いわば、労働者としての権利を獲得する歴史が書かれていると思った。

その本を、たとえ当事者としてセックスワーカーが読んで「難解な用語が多くて何を言っているかわからない」という感想を持ったとしても、坂爪氏がその言葉で全てを片付けることは、人権問題に取り組む人々への敬意の欠如と軽視に他ならないのではないかと感じた。

「怒り」を浴びた立場として

坂爪氏は著作内で、『かがみよかがみ』炎上の件は、「現場の当事者が使っていない言葉を用いて勝手に当事者の代弁をして、当事者にとっての敵ではなく自分たちにとっての敵を成敗する、という当事者の二次利用」(235頁)の代表定な例だと挙げている。

その敵を成敗する「怒り」は「麻薬」であり、依存症になっている患者が炎上を引き起こしているというのが、一貫した著者の主張だ。これは怒りの矮小化に繋がり、その感情の社会的背景にあるものを覆い隠す考えだと思っている。

坂爪氏のジェンダー依存患者は治療する必要がある論に耳を貸すつもりはないが、同意できる部分もあった。「人を動かし、社会を動かしていくのは、怒りを社会性のある形で昇華することによって生み出される、人と人とのつながりに他ならない。(295頁)」

私は「怒り」を浴びた立場である。その「怒り」は正当だったと今は思っている。「怒り」には大きな力がある。物事を動かす大きな推進力になってきたことは歴史が証明している。だが、同時にそれだけでは変わらない部分もある、ということも感じている。

これは、炎上時の多くの人の怒りに対し、「もっといい形にできたよね」と言っているわけではない。

怒ってはいけないなんて思わない。許せないという気持ちを持ってはいけないとも思わない。もちろん、当事者しか意思表示してはいけないというのも馬鹿げた話だ。

だが一方で、昨今の流れるように炎上が沸き起こるTwitterのフェミニズム界隈を見ていると、怒りを社会性のある形で昇華する必要もまた、あるのではないか、とも思う。

私は炎上を通して変わった人間だと思う。怒りの強さ、その効用を知っている。

「怒りを昇華した方がいい」というのは、自戒を込めた反省でもある。私もよく、Twitter上で怒っている。怒りのうねり、の一端になったことはあるだろうし、これからも怒り続けるつもりだ。

しかし、怒りの矛先になるのはとても辛い経験だった。ジェンダーを巡る問題は全員が当事者にも加害者にもなりうる。「怒り」が大きな力を持つからこそ、そのデリケートな側面を無視して怒るのは、自分に矛先が向く可能性があることを念頭に置いているのか、と怖くなることがあるのだ。

「私にはできないし、したくないけど」の枕詞

男しか行けない場所に女が行ってきました(田房永子著/イースト・プレス)の中で、「敬蔑」という言葉が出てきた。

今まで、風俗嬢やAV嬢に対して自分が持っている、蔑みと劣等感、矛盾した過剰な感情、これは尊敬と軽蔑、どっちなのだろうかという思いがあった。それが両方であると分かって、「敬蔑しているんだ」と自分で認めることができて、すごくスッキリした。(153-4頁)

と、田房氏は著書で述べている。私は、これに深く共感していた。

(私にはできないし、したくないけど、と心の中で呟いた後に)あなたがセックスワークをすることに対しては否定しないよ、と友達に言ったことがあるからだ。田房氏が述べているように、「尊敬も軽蔑も、自分にはできないと認めるという意味では、同じこと」(153頁)なのだ。私は過去、その子を「敬蔑」していた。

その「私」の個人的な感情を、セックスワークに対する議論に持ち込むことは、労働者の権利向上を妨害することになると『セックスワーク・スタディーズ』は喝破する。

わかっておかなければならないことがいっぱいあることをわかってほしい。個人の感覚、感情を議論に持ち込むことをそろそろやめてほしい。(105頁)
セックスワークの議論の際に、「私はそういう仕事はできません」と言い出す人がいます。だから何?それは個人の事情でしかなく、法にはなり得ない。(107頁)

私はどこまでセックスワーカーを「ポルノ」的に見れば気が済むんだ、と頬を叩かれた思いがした。私がセックスワークを労働だと見なしていなかったのは、知ろうとすることもせず、個人の道徳観という感情を無意識のうちに判断基準にしていたからだった。


(下)に向けて

次は、『かがみよかがみ』コミュニティのあり方の問題点について、かしだなさん(現在の名前はidanamikiさん@seikatsukashida のnoteを引用しながら述べていく。








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