別に有名にならなくても、「つくって楽しい」だけでも、いいんじゃない? -とある音楽系YouTuberの独白-
「YouTubeのチャンネル登録、1万人なんてすごいですねぇ」
最近ではそんなふうに言ってもらえることも増えてきた。やってきたことを認めてもらえるのは、すなおに嬉しい。
大学生のころから、YouTubeに歌ってみたの動画を上げ続けてもう3年になる。コロナのせいで、大好きなひとりカラオケに行けなくなったから始めたインドアな趣味だったが、人間は「出来ることがそれしかない」と続くもののようである。
最初のころは1本つくるのも一苦労だったが、いまではもう慣れたもの。平日の夜に練習をして、土日に収録、そのまま軽く編集を加えて動画を上げるという流れ作業は、もうわたしの中で毎週のルーティンになっている。
学生のころに慣れていたからか、社会人になった今でもなんとかそのルーティンを続けられている。土日に動画を公開したあと、チャンネルの公開動画一覧を見ながら「次は何を歌おうか」と考えるのもいつものパターンだ。画面にずらりと並んだ200本を越える動画を見ながら、「けっこう長く続けてきたなぁ」とたまにしみじみと思ったりもする。
そんな発信活動をひっそりと続けているうちに、YouTuberのネット友達も何人かできた。たまにディスコードで話す友達からは、「もっと有名になりたいよね」なんてことを言われたりもする。しかし、そのたびにわたしは言葉に詰まってしまう。
「別に有名になるために、発信してるんじゃないんだよな…」
そう思ってしまうのだ。
最近では動画の方にも視聴者からこんなコメントが届くようになった。
「もっとサムネイルを気にしたら再生数伸びると思いますよ」「この楽曲を歌ってみたら、もっとバズるんじゃないですか」「コラボで他のチャンネルの視聴者を引っ張ってきたらどうかな」
そんな「わたしのため」を思った、盛大なおせっかいコメント。文字の羅列を薄めで見ながら「うるさいなぁ」と言葉が漏れてしまう。高校時代に感じていた「良い大学にいくべきだ」という、暗黙の了解のようなものを押し付けられている気分になる。
もちろん、みんな善意で言っているというのは分かっている。ただ「有名になっていくべきだ」という、世の中の承認欲求から成り立つ、何かみえないプレッシャーにのまれたくないのだ。
「歌うこと」「だんだんうまくなること」「それを誰かに聞いてもらえること」、そんな創作活動自体がわたしはいとおしく。これをずっと楽しく続けていきたい。この気持ちを邪魔しないでほしい。
・ ・ ・
ある日、YouTuberの友達から「この前の歌ってみた動画、TikTokですごい伸びてるじゃん!」というメッセージがディスコードに届いた。しかし、まったく身に覚えがない。
TikTokで調べてみると、確かにわたしの歌ってみた動画がそこにあった。わたしのYouTubeから切り抜いて投稿されているようだった。いいねは1万を超え、再生数は数十万再生にもなっていた。「#歌うま」といった、TikTokのトレンドのハッシュタグの上位にも並んでいるらしい。
驚くと同時に、それだけ聞いてもらえているのは嬉しかった。
聞いた人たちの反応が気になってコメント欄を開いてみる。すると、そこは地獄のようだった。
「このうまさで、#歌うま つけるってどうなの」「この人、自分のことうまいって思いながら歌ってるんだろうなぁ」「自意識過剰」「もう少し声量がほしい」「ちょっとアレンジいれすぎ」
誰か知らない人が勝手にあげたわたしの動画に、誰か知らない人たちが勝手なことばかり言っている。コメント欄を見ながら「うるさいなぁ」と言葉が漏れた。
今週ももう金曜日だ。明日も朝から収録をしないと。コメントはいったん見なかったことにして、今日はもう寝ることにした。
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