『きりこについて』から学ぶ自己肯定感

『サラバ!』に続いて西加奈子さんの『きりこについて』を読んだ。『サラバ!』は2014年、『きりこについて』は2009年の作品である。同じ著者の作品を続けて読むことは多い。1作品だけではわからなかった発見ができる。『サラバ!』では貴子のセリフが胸を打つ(過去記事)。この作品においてだけの発言だったらとんでもなく鋭利な、尊い、救いのような言葉だと思う。キラキラ光る奇跡のように感じるだろう。しかし、遡ること5年前にはすでにそのセリフは存在していた。『きりこについて』の主人公・きりこは両親・祖父母のコンプレックスをかき集めて生まれた「ぶす」である。幼少期の絶対的な愛情と自信を思春期に傷つき失い、引きこもり、眠り続ける日もあった。ある日、予知夢を見る。それは同じ団地に住む、ちせちゃんがレイプに遭い、被害を訴えるも「あなたにも非がある」と大人たちに咎められ、悔しい思いをしている場面だった。予知夢は現実となり、きりこは外の世界に出る決意をする。そこで大人たちに言うのだ。

「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらんと思うから。」

貴子の言葉がフラッシュバックする。間髪開けずに同じ著者の作品を読むと、著者の生き方・信念のようなものがふわっと見える。

なぜ自分の人生を他者に委ねようとするのか。他者と比較しない、というのはものすごく簡単なようでとてつもなく難しくもある。いつだって周囲は気になるし、他人に負けたくないと思うこともある。他者が有利に進む中、どうぞどうぞお先に進みください、私はゆっくり行きますんで、と言えるのはなかなか至難の業ではないか。向上心がないわけでもない。常に最善・最良を求め、我が道を行く。己のペースで。誰に批判される所以もない。それを実現させるのは「高い自己肯定感」だと思う。きりこ自身も自らの言葉を自分自身に言い聞かせるように言うのだ。「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」

「自己肯定感の高い人」はややもすると「我関せず」な「傷つかない」人のように見える。本当はそんなことないのに卑屈なフィルターがかかっているとそう見えてしまう。どちらがより繊細なのか鈍感なのか、という話ではないのに、なぜか自己肯定感の高い彼/彼女らのことをつい鈍感で神経が図太いのだとケチをつけたくなる。

自己肯定感の低さは依存を引き起こす。自他の区別があいまいとなり、相手も自分も大切にすることができない。では、そこから抜け出すにはどうすればいいのか。まずは自他の境界線をしっかりと識別することだ。「自分の領域」「相手の領域」をしっかり分別し、相手のことも自分自身のこともリスペクトする。ありのままを無条件に受け入れる。ある出来事に対し「あなたは~~だ」と言うのではなく「私は~と思う/と感じた」とI メッセージで伝える。そのうち「〇〇すべき」思考から「〇〇したい」と主体的な思考を会得し、自立することができるようになる。これが自己肯定感を高めるプロセスであると同時に依存克服への道である。

読書はその時々の思考や悩みとリンクするから面白い。西加奈子さんの作品を今、読む機会に巡り合えたのも何かの偶然であり必然であったように思う。「依存×〇〇」として、小説は趣味で読みつつ、依存の勉強(自尊心、自己肯定感、自己愛、アダルトチルドレン等)をしているのだが、こうして頭の中に点として入れた知識や情報が結びついて整理されていくのが面白い。心理面だけでなく、あらゆる事象はこうして単独の原因と結果でなく、複数の原因による結果生み出されたものなのだと改めて思う。

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