見出し画像

感情を理解してほしいのは、他人、神的な何か、そして自分

他人に感情を理解してほしいのはわかる。

地元札幌の街中、高校生の溜まり場マクドナルドに行けば、女子高生が延々と自分の話をしている。頷いたり、相槌を打った瞬間自分のターンへと移行する繰り返し。多分中身はなくて、この会話というゲームのプレイ時間に比例して友情の度合いが決定される。

学校に行けば数人で歩いているグループが、どうやら他人の目線を気にして会話している。彼らが主張したいのは、自慢の含まれる会話内容なのか、服装なのか、自信のある顔なのか。

感情を伝える方法はどうやら感想を伝えることだけではないらしい。感情をそのまま伝えるための言葉に加えて、インスタの投稿、日々の行動、自己表現などと他人に見えるもの、見せるものを通して自らが理解されることを求めている。

神的な何かに自らを理解してほしいのもわかる。
他人が見ていない場所での善行、理不尽にあったときの自己完結のための「神様が見てくれている」的な思考、困ったときだけ存在を作り出す神頼みのための「神」や、人が死んだときにだけ思い出す宗教上の神的存在。

では自分に理解して欲しい、とは?
なぜ人は誰も見ていないのに場所でタバコを吸い、一人で車やバイクを飛ばし、自傷行為をし誰も見ない文章を書くのか。本人にとっては意味ありげな行動、無駄といえば無駄である。おっとブーメランがいくつか刺さった

大抵、これらの行動をしているときはこれらを行っている自分を客観視している。
自らを三人称視点で見てくれているという点では神的な何かのそれと似ているのだが、神様との違いはこれらの行動を引き起こす感情自体の解決を求めていないことである。誰かが死んで悲しいとか、何かをどうしても成し遂げたいと神の前で思考するときには第三者の理解を求めているのに対し、ただ黄昏れているだけの状態や、車をぶっ飛ばしている快感、自傷とも言える喫煙を行う心情、つまり「自分に酔っている」状態、これを自らの自らによる理解と呼んでいる。 
自分に酔っていることと他人に理解してほしい状態との違いは、自分に酔うための行動が他人に感情を伝えるためには働かないと理解した上での行動であるという点だ。
つまり、一人で車に乗ってスピードを出しても、他人に自らの感情を伝えるには不十分であるにも関わらず、その行動が誰かによって頻繁に行われるということである。単に急いでいるのか、高ぶっているのか、傷心から飛ばしているのか、ただのスピード狂なのか、暇なのか。とにかくそんな馬鹿のことを理解しようとする人間はゼロに等しいし、本人もそれを理解している。
それでもこのような行動を起こすのは、それをしている自分を客観視して酔うため、要するに自らを自らで理解するためであるということなのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?