見出し画像

【Twitterまとめ】人の話を聞く、とは一体どんなことなのか&メサイアコンプレックスの話

「人の話を聞く」ということは具体的にどんな状態で、どんな場面で必要なのか?という話。「傾聴」という手法がつまり人の話を聞く技術の事だと思っている、お金はらってカウンセリング受けるとして貰える。

傾聴に関しては、ググったらいっぱい出てくる。普段の人間関係の中でお互いにこれができる間柄の人が居るのは、とても幸せなことだと思う。

傾聴をやる側は内容によっては超超超大変なので、話してばかりになると相手の負担はでかい気がする。大人同士でそれをしているのなら、お互いに同じくらいその場を提供できるくらいの関係でないと、聞いてばかりの人は疲れてしまうのではないだろうか。

そんでこの傾聴の技術は子育てしてると、子供が集団の中で社会的繋がりでの悩みを持ちはじめた時に、親が子に出来るのがベストかと思う。

ただ話を聞くこと、アドバイスを押し付けず話したいように話をさせてあげること、私はとても難しいと思いながら子供の話をじっと聞いてる事は多い。「話を聞く」というのは、結構難しいのである。

私は普段ここで毒実母という呼称を使っているが、自分の母親が精神的に問題のある人間で子供の私に対してこの傾聴を求め、毒実母がかかえるあらゆる心理的問題を聞かされて目の前で泣かれた。私が保育園通ってた頃から。ゴミ出しのトラブルで近所と揉めて虐められると目の前で泣かれたり。父親と見合いで結婚したのは間違いだった私には他に好きな人が居ただの泣かれたり。私は不幸なの子供が居るから離婚が出来なくて不幸な結婚を続けなくてはいけないのと泣かれたり。一人目の子供が死産だった話も、中絶を2回した話も、子供の頃に家にいた家政婦に身体的な虐待を受けた話も、毒実母のあらゆる不幸話を私は幼児の頃から聞かされて目の前で泣かれて育った。毒実母はいつも「あんたは幸せでいいわよね」と言った。

この記事にも書いた話。

私は自分が子供の頃、自分の親に対して傾聴のようにただ話を聞いてもらう経験はほとんど無い。覚えていない。負の記憶が多すぎて思い出せない。無いのかもしれない。

特に毒実母には、自分の悩みを打ち明けると大事にされてトラブルにされたり、お前は病気だバカだと罵られて否定され、批判され、そんなことで悩むお前が異常と決め付けられて話を終わらされた。

話を満足いくまで聞いてもらえた記憶というのが、家庭の中では無かった。

産後にいよいよ私もおかしくなってカウンセリングに通ったんだけど、私はそこで人生て初めての『ただ話を聞いて貰える』という経験ができた。これは前述のような家庭環境だった故にとてつもない収穫で、私は今まで経験がなかったから他人の話を聞く技術は自分にもほとんどなかったと思い知った。たまたま母親と年齢の近い、年上の女性の臨床心理士だったので『もしかしたら、世の中のお母さんという役割のなかで健全な人は、こんな風に子供の話を聞くのかな?』と、本当に目から鱗の衝撃だった。お母さんってこれか!!!っていう感覚。本当に驚いたんだよ…。

今、自分が母親という役割をしているのでその時の経験は忘れられないし、上手く話を聞けない時もあるけど目指す方向というか手本みたいなものがあるから、なんとかやってる。

親は子供のカウンセラー役もやるときが必要。大きくなってからね。

その逆で子供が親のカウンセラーになる必要はないし、そんなことをしたら子どもの心がズタズタに壊れるから辞めて欲しい。

話は少しズレる。私のような機能不全家族育ちだったり、心の闇を抱えるような人間が外で何かを吐き出した時に「話を聞いてあげるよ!」みたいな人に出会うことがある。ブログやSNSで知らない人からコメントでそういう流れになる時がある。その場合に果たして「この人は本当に人の話を聞いているのか????」と疑問と違和感が残るだけみたいな事が、悲しいがよくある。

『人の役に立ちたい衝動』とか『皆を笑顔にしたい衝動』の背景って、結構どす黒い感情が渦巻いてることってあるのではないか。

私は心理の専門家でなく、自分が心理こじらせて本読んでたりするだけなんだけど。たまに見てて、この人はメサイアコンプレックスだよなって感じる『いい人に見える人』は居る。

何て言うかね。何でも話してって言われても「考えすぎだよ!上手く行くよ!普段からそんな風に考えるから暗くなるんだよ!」ってポジティブて封じられて、私は良いことをした!って、満足な顔されるの、こういう人。面倒だから話さない。

相手が辛い気持ちを抱えていて、それを話した時。聞いている人が「私は話を聞いてあげて励ましてあげて良いことをした!今日も人にポジティブを分けてあげた!私ってすごい!」という快感を得る目的で、話を聞いている雰囲気で居るだけで、実際は自分の主張を押し付けているだけという場面は、多い。私自身が結構経験してきている。

メサイアコンプレックスというキーワードを知ってから、そういう人に対しては心でシャッターを閉めることが出来るようになった。

『自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々』のことを指す。

子供の話を聞くときに、同じように「考えすぎだよ!上手く行くよ!普段からそんな風に考えるから暗くなるんだよ!こうすればいいじゃん!」と感情を否定し、解決を考える機会を奪って、的外れな答えを押し付けて、そういう自分を「なんて良い親だ!」と感じていないかどうか。

「人の話を聞く」というのは、実はとても難しい。肯定のメッセージを発信しながら相手が感情を表に爆発させるための手伝いをするだけに徹する「人の話を聞く」という技術は、実はとても難しい。結構体力を使う。

相手が子供だったり親しい友人や配偶者だったりすると、その近すぎる距離感から自分との境界線があやふやになる時がある。聞いている事象が自分の身に降りかかったこと錯覚してつい、自分ならこうするああするという視点で論じて口を挟んでしまいがちになる。つい「ぼくのわたしのかんがえた、さいきょうのあどばいす」を言いたくなる。それは「人の話を聞く」ではなくなっているのではなないか。貴方が問題解決能力を発揮していい気分になっているだけではないのか。

辛い時に「人に話を聞いて欲しい」と思って誰かに話してスッキリした時、相手はどんなふうに聞いてくれたか。カウンセラーはどんな感じだったけ?と思いつつ、毎日子供の話を聞いている。

子供の頃の私は話を聞いてほしかった。多分こんな風に、と思いながら。私にとっては大変な難題。頑張ったら自分の問題も少し解決しそうな、難題。

反響の多かった自分のツイートを読みやすいよう、繋げてテキストとして残しています。(誤字脱字の修正と文章の微調整をしますのでオリジナルを改変しています。)

投げ銭を頂いたりしたら、嬉しさと興奮のあまりワタクシの鼻毛が伸びる速度が上がって大変な事になることでしょうね…。