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ピノコと、黄色い満月の記憶

「オムレツしようか」と言われて、10個入りの卵のパックを見たときに思い出した。
わたしは時々、ピノコのことを思い出す。

ピノコ、というのは手塚治虫先生が生み出した名医「ブラック・ジャック」の助手である。
出自を詳しく語ると長くなるので割愛するけれど、見た目は5才児くらいの女の子で、なかなかパワフルな性格をしている。

「ブラック・ジャック」は昔の恋人が好きで、その当時に読ませてもらっていた。
文庫本で結構な冊数読んで、「ピノコの初登場回」だって読んだ記憶があるのに、最終巻まで買い揃えられる日は来なかったので、結末は知らない。

わたしは、ピノコのことが好きだった。
「どこが好きなの?」って訊かれたら、きっとこの話をすると思う。

ピノコは5才児(のように見える)のに、ブラック・ジャックのために食事を作ったり、買い物に行ったりする。

ある日、買い物に行ったピノコは、帰り道で転んでしまう。
それを見たご婦人が、「だいじょうぶ?」とピノコに声をかける。
買ったばかりの卵は、パックの中で割れてしまっていた。

ピノコは毅然と、「大丈夫よ」と答える。
そして「よろしければ、お台所を貸してちょうだい」と言う。

そしてピノコは、ご婦人の家の台所に立ち、フライパンに割れた卵を流し込む。
卵はたちまち、ひとつの大きなオムレツになった。

わたしの記憶の中でそれは、「ぐりとぐら」に出てくる、巨大なカステラのような、黄色くて大きな満月みたいに、残っている。
漫画は、白黒だったのに。

最後にピノコは毅然と、「ありがとう」と告げて、台所をあとにする。
びっくりして目を丸くするご婦人を残して

最後にブラック・ジャックを読んでから、もう10年近く経ってしまっているので記憶はあいまいだけど、だいたいこんな話だった。

わたしは、ピノコを愛している。

転んでもただでは起きない、というところ。
このエピソードに於いて、転んだ直後から卵を焼いて、台所を去るまでのあいだ、ずっと毅然としていたこと。
「お台所を貸してちょうだい」という、そのせりふ。
たまごを焼いているときには、鼻歌なんて歌っちゃうところ(うたっていた気がする)

そのすべてを、わたしは愛している。

ピノコはこどもで、生意気で、よく怒っていた。
それは「ぷりぷりとした」怒り方で、それもなんだか憎めなかった。
「良い奴か」と訊かれると、わからない。
ブラック・ジャック先生とは良いコンビだったし、やっぱり「憎めない」というのが答えになるだろうか。

あれからずいぶん経って、おとなになったわたしは「明るく元気に」という言葉を、心の何処かで支えに生きている。
そうしていれば、きっとだいじょうぶ、と信じている。

でもときどき、ピノコを思い出す。
「明るく元気に」とはぜんぜん違うような気がするけれど、
その毅然とした生き方に潜む生意気さ、
そういう成分も、そういうわたし自身も、やっぱり大事にしたい。

転んでもただでは起きない、ということはほんとうに大切なことだと思う。
転ばない生き方をするよりも、ずっと。

「起き上がり方」はきっと、何通りあってもいいんだ。
明るく元気に乗り越えたって、たまにはぷりぷりと怒ってみても、ひとりで鼻歌をうたったって


わたしはこれからも、ピノコのことをずっと忘れない。





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