見出し画像

心にも、ハンドクリーム

やっぱり気のせいじゃなかった、と思う。

多くのことの大半は、「気のせいかもしれない」から始まる。
痛みも、違和感も、苛立ちも。
気にしすぎかもしれない、と。

ほんものだ、と気づくまでは時間を要してしまう。
どうして、予防をするような生き方ができないんだろう。

手が乾燥している、ような気がしていた。
数日経っても「気のせい」はおさまらなかったので、「ほんとうだ」と太鼓判を押したところ。

いまさら慌てて、会社のデスクにハンドクリームを仕込ませる。
カバンの中にもハンドクリームが入っていたのだけれど、「残量が僅かなのでケチって使ってしまうターン」に入っていたので、使用頻度が低くなっていた。
最後の一度を絞り出して破棄。新しいハンドクリームを押し込む。

そして、日に何度も手を撫でる。
ハンドクリームを刷り込んで、安堵する。
ああ、いい香り。
いいことをしている、ということも、わたしを安心させる要因のひとつだ。
ああ、わたしってばなんて単純なんだろう。

乾燥した手には、ハンドクリーム。
部屋が暑ければ扇風機、それでダメならエアコン。
寒くなればパーカーを羽織る。
しっかりと水を飲んで、からだを潤すことも大切だ。

そういうことは少しずつ、ようやくわかってきて、「にんげん」の顔をして、きちんと生きられるようになった気がする。

それでも、わたしは立ち止まる。

呼吸が浅い気がする。
思考が無駄に巡っている、建設的ではない。
ああ、わたしはまた「誰かが助けてくれること」を待っているのでは、ないのだろうか。
手を伸ばさずに。

心臓が必要しているのは、水分だろうか、やさしいクリームなのだろうか。
それとも、どろっとした水を「吸い取るべき」なのだろうか

心の違和感ってやつは、いまになっても上手く対処できない。
違和感だから、たいしたことはない、と思ってしまうわたしもいるし、
さざ波のように、押しては退いて、一定を保たないことも「違和感」のひとつだ。
放っておいてもいいじゃないだろうか。まだ。
「だいじょうぶ」とつぶやく。

心にも、ハンドクリームを塗れたらいいのに。
水を弾いて、いやな匂いを打ち消して、適切な空間を作れたらいいのに。

なかなかうまくいかないなあ、と思いながら、お茶を飲んで考える。
そういうもんだしなあ、と頷く。
おとなになると「そういうもん」が増えてゆく気がする。

それでも、心にハンドクリームを塗れないわたし自身を、わたしは愛している。
やっぱり心は「ハンド」じゃないしね、なんて、ひとりで笑う。
「最初から、いつでもうまくできると思ってんの?」と、いまより少し幼いわたしが無邪気にほほえむ。
そうだよねえ、とおとなのわたしが頷いて、煙草の煙を吐き出すだけだった。




スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎