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わたしの一部をあなたに、預けます。

わたしは、すぐに忘れる。

上澄みをかすめるように、生きているような気がしている。
物事を、深く咀嚼できないような
ふわふわとかるい、その代わりにほんの少しの明るさで、足先を照らしている。
そうして、なんとか呼吸をする。

「無職のあいだにはアニメを見ている」と話したのに、
「なにを見ていたの?」と訊かれて、答えられるタイトルは少なかった。
たぶん、実際に見たものの3分の1くらいだと思う。
そんなふうにわたしは、すぐに忘れてゆく。

むかし、母親が「読んだ小説の内容を忘れる」と言っていたことに、びっくりしたことを覚えている。
なのにいまでは、よくわかる。
わたしも、忘れてゆく。
あのときわたしは母親に「二度目の本でも、”新しい本を読んだ”っていう感覚に出会えてすてきだね」というようなことを言ったらしい。
それがわたしの、”ほんの少しの明るさ”ような気がしている。

忘れて、
いろんなことから逃れているのだから、
ちょっとくらいは、明るく、やさしくなれるのかもしれない。
傷が、治ってゆくように。
治ったら、忘れてしまうように。

最近、少しずつ友達と会う機会や、その友達の範囲を増やしている。
ありがたいことに、友達から連絡をもらえる機会や「会いたい」と言ってもらえることが増えた。
いままでは、予定が合わず「いつかね」なんて言っていたけれど、いまでは「行くよ」と気軽に答えられる。

むかしの友達、というと言葉がよくないかもしれない。
でも、二十代とか三十代の、その一瞬の時間を色濃く過ごした友達は、やっぱり、その瞬間のわたしを、色濃く記憶してくれている。

友達ではないけれど、実兄もそのひとりだ。
今まで、実兄に会うのが面倒だった理由のひとつは、その色の濃さだったと思う。
やっとのことで脱いだ(脱げた、と思っている)青春スーツを、がちがちに着ていた十代とか、へたしたらそれ以前のわたしのことを、引っ張り出されてしまったら、大変だ。
上澄みの、逆。
水に溶解せず、底に沈んでいる記憶。
あのときのわたしに会ってしまったら面倒だ、と思っていた。
近年ようやく、二十代の頃や、最近のわたしとうまいこと混ぜ合って、適切に話ができるようになったような気がする。

むかしの友達に会うと、いまでもびっくりする。
あるときの友達は、わたしのことを「ライブハウスの店員」だったと記憶しているし、
また、あるときのわたしは「バンドマン」だったと
そして最近の友達は、「弾き語りをするシンガーソングライター」だと、思ってくれている。

いまのわたしは、どれにも該当していない。

びっくりしながらも、その節々に存在していたわたしのことを、愛しかったり憎らしいような気持ちで見つめる。
ときおり、びっくりするくらいに眩しい。
ああ、そんな眩しさを携えていたな、と思い出す。

ほんとうに忘れてしまったこともいくつかあるけれど、
実際は、水の底に沈んでしまっただけで、
水の中に手を突っ込めば、その記憶に、触れることができる。

懐かしいな、と思う。
そのときのわたしの大切だったモノや、感傷に触れる。
いまでは、それらが大切ではなくなったしまった。
実際は、「大切だったことを忘れている」だけで、いまでも大切だったはずなのに。
ほんとうにわたしは、だいたいのことをすぐに忘れてしまう。

こうして、冷たい水の中に手を入れるように、記憶の扉をノックできることは、苦しくも幸福だと思う。
もちろん、友達と話すこと自体は楽しい。

わたしの一部をあなたに、預けます。

ふいに、そんな歌詞を書いていたことを思い出す。
当時は、すごく傲慢な気持ちで生み出した言葉だったのに。
ほんとうに、その通りになってしまった。
そして、書いたこともしばらく忘れていた。

そんなわたしのことを、
覚えていてくれて、ありがとう。
また、教えてくれてありがとう。

あのときのわたしに会えて
当時の眩しさや間抜けさに、目を背けたくなるようなこともあるけれど
もう一度出会えて、よかったのだと思う。

わたしはその気持ちを今日、noteに残して、またきっと忘れるけれど。
大切にしたい、と思った眩しさを、いま一度抱えることができたことを、
すごく、嬉しく思っている。





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