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今日に限って / 良い傘

今日に限って、と思う。

人生は、「今日に限って」の連続なのだ。
朝早く起きられないのも、電車に乗り遅れるのも、赤信号に捕まるのも、

だから、「今日に限って」をそれほど気にすることはない。
というのが、近年の持論だ。
うまくいったことなんて、すぐに忘れちゃう。なんて言ったら、薄情すぎるだろうか。
良いことは気づくと、乗り越えなければいけない壁に変わって、わたしはいつも足りない。
だからいつも、今日に限って、なんて思っちゃう。

今日に限って、安いサンダルを履いてた。ユーミンも、そんなふうに歌っていた。
みんながきっと、そうなんだと思う。
「そんなサンダル、はやく捨てちゃえばよかったのに」なんて、わたしは言えない。
絶対に必要なのだ。
安いサンダルで、勇敢さと怠惰さを入り混じらせて歩き出す、その瞬間も。

今日に限って、帰りの電車に座れなかった。
座れないなら電車の発車時刻までのあいだ、ホームで電話をしようと思った。
たくさん着信があって、引っ越し関係の何かだと思った。
そうしたら、ケーブルテレビか何かの案内で、丁寧なのは良いけれど全然要領を得なかった。
引越し日とか、テレビを置く予定があるかとか、どうして見ず知らずの業者に説明しなきゃいけないワケ?
最終的に「オンラインで設備の紹介をしたい」と言われた。
「メールじゃダメですか?」と聞いたら、「オンラインのみです」と言われて、「出先なので」とできるだけ丁寧な気持ちで告げて電話を切った。
苛立ちは、隠せなかったと思う。

「オンラインで打ち合わせさせてください」のひとことで済んだだろうに。
なんでここまで4分もかかったんだよ。
電車、行っちゃったじゃないか。

今日に限ってというか、最近は急に仕事が忙しくなった。
少しずつ増えればいいのに、一気にどかんとやってきた。
やらなくてはいけないことがあるのに、体調を鑑みて少し早くオフィスを出たところだった。
そう、今日は早く帰りたかったんだ。

ああ、今日に限って
電車には座れないし、
早めに折返しの電話頑張ろう、と思ったら電話しなくてよかったやつで
そんな電話ひとつに、苛立ってしまう自分が情けない。
わたしだって仕事の電話で、相手にイライラされたら嫌だから、できるだけ良いお客さんでいよう。と努めて暮らしていたのに。
情けない自分に、嫌気がさす。
ああ、具合が悪いだけなのだろうか。もうわからない。

おまけに、雨も降っている。

今日に限って傘を忘れた、とならないように、折りたたみ傘を鞄に入れっぱなしにする生活を続けている。
もう、10年くらいになるだろうか。

東京は、すぐに天気が変わって驚いた。
というか、地元にいたときにはあまり気にしたことがなかったのかもしれない。
だいたい車移動で、車の中に傘があれば問題なかったし、外を長時間歩くこともそんなになかったような気がする。

隣の駅に出勤すると、雨が降っていたりすることが多くて
もう面倒だからと、傘を持つことにした。
同じ理由で、洗濯物も部屋干ししている。
今日に限って、天気予報が外れたり、雨に降られたりしないように。

傘を持っているから、雨でもそんなに落ち込まなくなった。
靴もほとんどが防水用に切り替えていて、今日もノースフェイスの雨に強い靴を履いていた。

いつも通り折りたたみ傘を引っ張り出して開いてみたら、なんだかおかしい。
ぐにゃりとしている。

折れた、と少し違う。
曲がったんだ、と気づいた。
カーボンの、やわらかい骨はボキリと折れない代わりに、ぐにゃりと折れ曲がってしまった。

ああ、今日に限って……

帰るのに支障はなさそうなのは幸いだった。
でも、新しい傘を買わなきゃいけない。
お気に入りだったのに。

「良い傘だね」と言われたことを思い出している。
それは、わたしの誇りだった。
小さくとも、確かな。

それは、傘を愛する友人だった。
お茶の途中で、やっぱり傘の話になって、「わたしはこれ」と言ってなぜ見せたのか覚えていない。

ほんとうに、お気に入りの傘だった。
外側は黒と青のあいだで、内側には星座みたいにポケモンの絵がたくさんついていて、夏も雨もたくさん支えてくれた。
なにより軽い。どこへ行くにも一緒だった。

彼女は丁寧に、傘を開いて、その生地と、持ち手と、骨を、ひとつずつじっくりと見た。
そして、「良い傘だね」とつぶやいた。
やさしいのに重量感のある、じんわりとした声だった。

「ねえ、日傘ってさ、ずっと使ってると効果がなくなるってほんとう?」
ついでに、気になっていたことを尋ねてみた。
「効果は、落ちてゆくよ」と、傘屋さんの顔で、彼女は答えた。
「でも、まったくのゼロになるわけじゃないから」
と告げたあと、いつもの彼女の顔に戻って言った。

「お気に入りだったら、ずっと使えばいいんだよ」

それが、わたしの欲しい言葉だった。

お気に入りのものを、使い壊してしまう機会は、人生に何度あるだろう。
わたしは、あまり多くないと思う。

壊れていないマグカップを、何度捨てただろう。
すべては、持っていることができなかった。
どうして10年も割れないんだろう。

着られなくなった服を捨てる回数と
着なくなった服を売る回数は、どちらが多いだろうか。
着られないわけじゃないのに、捨てていることもあるかもしれない。

アイシャドウもファンデーションも、途中で飽きてしまうばっかりで
だから、「使い切る」「使い壊す」って、あまりないことだと思う。

「良い傘だね」
「お気に入りだったら、ずっと使えばいいんだよ」

友達の声が、響いている。
ねえ、わたしはこの傘を最後まで使い切ったよ。
それはやっぱり、どこか誇らしい気持ちだった。

今日に限って、と思うのをやめた。
今日はたまたま
またはいつも通り、ささやかだけどいろいろなことがあって
そして、お気に入りの傘の卒業日だった。

新しい傘を買うまでは、もう少し頑張ってもらわなくちゃいけないけれど。
いまは、新しい傘をどこへ買いに行こうかな、なんて
少しわくわくしている。

たとえ、折れた傘と別れるときに
じんわりと寂しい気持ちになったとしても。





※今日に限って安いサンダルを履いてるユーミン


※傘を愛する友人(中学の同級生)(いいやつ)


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