死なないでくれよ、ちびっこギャング
わたしは、病院のベンチに座っていた。
くすんだクリーム色で、廊下にはどこか懐かしい雰囲気の明かりが灯っていた。
長い廊下は、学校を思い出させる。
わたしは学校以外で、こんなに長い廊下を知らないだけかもしれない。
デパートみたいに入り組んだりしていなくて、人はみなベンチに座ったり、壁際に立ったり
そしてデパートみたいな、ふわっと浮足立つような明るさとは、やっぱり異なっていた。
電気はみんな、同じ電気なのに。
*
このあとの治療は、痛みを伴うものだと理解していた。
最初のころは、週に1度の病院の日の、3日前くらいから気落ちしていた。
治療して、3日経てば次の治療の3日前になる、みたいな。
こういうふうに考えると、1週間って結構早い。
座りなれないベンチで、絶望的な気持ちだった。
名前を呼ばれたくない。
でも、名前を呼ばれなければ帰れない。
そわそわと何もできず、時折スマートフォンを手にとって、何をするわけでもなくまた伏せた。
*
今日は、本を読んでみた。
最近は余裕が出てきて、本を読めるようになった。と、思うことにしている。
1章読んで、本を閉じて、時計を見て、少しぼおっとして、もう一度本を開く。
それを二度繰り返したところで、名前を呼ばれた。
不安だとか嫌だとか、いろいろ思う前に慌てて本とスマートフォンをカバンに押し込む。
*
スマートフォンを開いたときに、そんなメモを残していた。
そうなんだよ。
良くも悪くも、本を読んでも何もしなくても、そわそわしてもしなくても、
残酷なほど規則正しく時間は流れてゆく。
だから本でも読んだらいいじゃないか。
だから、ビビっているのはもったいないじゃないか。
そんなふうに感じるまっとうさを、長い時間をかけて身につけてきた気がする。
生卵を床に落としても、いつからか泣かなくなった。
「わたしはなんてダメなんだ」と思う前に
「卵はまだある」とか、「掃除すれば床もきれいになる」「むしろ、もとよりきれいになる」とか
そういう、健全さ。
不必要な自虐で自分の首を絞める、その行為に溺れてはならない。
それはずいぶんとまぬけな悲劇のヒロインだ、と気づきつつあった。
そんな自分を打破する、唯一の着地点が健全さだったのだと思う。
おかげさまで、あのころよりおとなになったいまは、息がしやすい。と思う。
*
メモは、そう続いていた。
最近は、健全さのその先について、考えている。
健全さはいつしか「妙な真面目さ」に成り代わって、「時間は同じだからビビる必要はない」というふうに絡まっていった。
ちがうちがう、
時間は同じだけど、ビビっちゃうし痛いんだ。
早めに気づいてよかったね、って言われても、悔しかったり悲しかったりするんだ。
少し前のわたしが蔑ろにしていた、膝を抱えている子どものわたし。
残酷なほど真実しか言わない、感情を殺せないわたしのことを
お医者さんに向かって「いてーよバカ!」って叫んでた、3才児のわたしのこと。
だよなァ。
やっぱり、痛いもんは痛いよな。
おとなになっても。
だからどうか、
死なないでくれよ、ちびっこギャング。
そのまま心の中で暴れていてくれ。
外側のおとなのわたしが、ちょろっと平気そうな顔をして本でも読んでやるからさ。
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