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死なないでくれよ、ちびっこギャング

わたしは、病院のベンチに座っていた。

くすんだクリーム色で、廊下にはどこか懐かしい雰囲気の明かりが灯っていた。
長い廊下は、学校を思い出させる。
わたしは学校以外で、こんなに長い廊下を知らないだけかもしれない。
デパートみたいに入り組んだりしていなくて、人はみなベンチに座ったり、壁際に立ったり
そしてデパートみたいな、ふわっと浮足立つような明るさとは、やっぱり異なっていた。
電気はみんな、同じ電気なのに。

このあとの治療は、痛みを伴うものだと理解していた。

最初のころは、週に1度の病院の日の、3日前くらいから気落ちしていた。
治療して、3日経てば次の治療の3日前になる、みたいな。
こういうふうに考えると、1週間って結構早い。

座りなれないベンチで、絶望的な気持ちだった。
名前を呼ばれたくない。
でも、名前を呼ばれなければ帰れない。

そわそわと何もできず、時折スマートフォンを手にとって、何をするわけでもなくまた伏せた。

今日は、本を読んでみた。
最近は余裕が出てきて、本を読めるようになった。と、思うことにしている。

1章読んで、本を閉じて、時計を見て、少しぼおっとして、もう一度本を開く。
それを二度繰り返したところで、名前を呼ばれた。
不安だとか嫌だとか、いろいろ思う前に慌てて本とスマートフォンをカバンに押し込む。

本を読んでも、びびっても、時間は同じなんだ。
少なくとも、物理的には

スマートフォンを開いたときに、そんなメモを残していた。
そうなんだよ。
良くも悪くも、本を読んでも何もしなくても、そわそわしてもしなくても、
残酷なほど規則正しく時間は流れてゆく。

だから本でも読んだらいいじゃないか。
だから、ビビっているのはもったいないじゃないか。

そんなふうに感じるまっとうさを、長い時間をかけて身につけてきた気がする。
生卵を床に落としても、いつからか泣かなくなった。
「わたしはなんてダメなんだ」と思う前に
「卵はまだある」とか、「掃除すれば床もきれいになる」「むしろ、もとよりきれいになる」とか
そういう、健全さ。

不必要な自虐で自分の首を絞める、その行為に溺れてはならない。
それはずいぶんとまぬけな悲劇のヒロインだ、と気づきつつあった。
そんな自分を打破する、唯一の着地点が健全さだったのだと思う。

おかげさまで、あのころよりおとなになったいまは、息がしやすい。と思う。

でも、痛くないわけじゃないってこと

メモは、そう続いていた。

最近は、健全さのその先について、考えている。
健全さはいつしか「妙な真面目さ」に成り代わって、「時間は同じだからビビる必要はない」というふうに絡まっていった。
ちがうちがう、
時間は同じだけど、ビビっちゃうし痛いんだ。
早めに気づいてよかったね、って言われても、悔しかったり悲しかったりするんだ。

少し前のわたしが蔑ろにしていた、膝を抱えている子どものわたし。
残酷なほど真実しか言わない、感情を殺せないわたしのことを
お医者さんに向かって「いてーよバカ!」って叫んでた、3才児のわたしのこと。

だよなァ。
やっぱり、痛いもんは痛いよな。
おとなになっても。

だからどうか、
死なないでくれよ、ちびっこギャング。
そのまま心の中で暴れていてくれ。
外側のおとなのわたしが、ちょろっと平気そうな顔をして本でも読んでやるからさ。





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