【往復書簡】 手紙を飼う
▼前回の手紙
前回の手紙から、1ヶ月半ほど空いてしまった。
お元気にしていますか?というのはズルいか。
先月遊んでからも、まもなく1ヶ月くらい? 夏がしぼんでゆく気配を感じているよ。
あなたに、手紙を書こうと思った。何度も
手紙というのはいつもそうで、書こうと思って、ずいぶん思って、ようやく最後に書く。
手紙を書くということ自体は愉快だし、書き始めれば……っていうのは、多くの事々と同じで、わかっているのだけれどなかなか手につかない。
善いこと、というのを求めてしまう気がする。
もっともっと素敵なものとか、あるいはわたしの素敵な状態(書きたいとい気持ちが満ち溢れること)を待ってしまっているような……万全を期す、というとわかりやすいだろうか。
けれども人生に於いて万全というのはそうそう訪れない。そんなに易くない。少なくとも、待っている先には訪れない。手を伸ばして、散々暴れまくったその先にあるのだ思う。空から降ってくればいい、と思うもののひとつだ。
手紙も書けない自分を責めたりもしたけれど、そういうときはやんわりと具合が悪かったりするので、放っておくことにした。
放っておいても良くなる保証はないのだけれど、努力でどうこうなることでもないので、結果として放っておいている。
それは少し、踏ん張ったり、いろいろな言い訳がうまくいくとき……つまりは今日みたいな日に、書いてみようかなあ。などと思う。勝算も予定も何もなく、気持ちひとつで牙を向く。
手紙を書けずにいる、という期間はうすぼんやり具合が悪く、他のこともうまくいっていないので、シンプルいえば良くない時期なわけだけれど、悪いことばかりではない。
わたしはこの1ヶ月と半分のあいだ、何度もめけのことを思い出した。
そのうちに一度はきちんとLINEで連絡したってわけ。
心の中で、めけに何度も問いかけた。ねえ、めけはどう思う?って、書きたいことが何度も浮かんで、それは消えたり消えなかったりした。
何度も妄想したことはさすがに覚えているのだけれど、文脈として書くの難しいので次の機会にするけれど、この期間、わたしはなかなか楽しかった。「書けない自分」を卑下するよりうんと、あなたを想い、問いかけることが。
これは不思議と、手紙を書いて送ってしまったあと、というのは起こらない現象である。手紙なんて、別に返事を待たなければいけないというルールはないので、好きなときに書けばいいのだけれど、「書かなきゃ」という、どこかにそういう気持ちがある時に訪れる感情だと思う。まるで、心に手紙を飼っているみたいな。
心に浮かんだ言葉と景色のうち、いくつかは相手に届いて、いくつかは消える。消える、というよりも体内をふわふわ漂う、わたしだけの宝物になる。
兎にも角にも手紙を書けてよかった。
今までに何度も「手紙、書けたらいいな」「書けたら書こう」などと思いながら、仕事帰りにスターバックスに駆け込んだのだけれど、全然うまくいかなかった。うまく書ける気がしなかった。
今日はうまく書けたかわからないけれど、「書く」と決めた。
この「決める体力」のようなものをずっと持っていたいのだけれど(HP30くらい?)、なんとなく日々をHP20以下で過ごしてしまっているような……そんな感じ。
むかし、スガシカオがラジオで、「頑張らない」みたいな読者投稿に対して、「自分の調子の良い日を見極める。調子が良いときには頑張って、無理そうなときには頑張らない」というようなことを言っていた。その「頑張る」の度合いは、自分で点数化してゆくとのことだった。
わたしはこれがすごく苦手で、自分の具合の点数がわからない。
倒れたときにようやくダメだったと気づくし、案外倒れないモンだから、「あたしってばまたサボっちゃって」と思うことが多い。その何割かは具合の悪さに起因しているということに、病気になってようやく気がついた。ごくごく普通のことを言うけれど、頭痛のときには言葉がトゲトゲしちゃうってこと。
フィジカル的な意味合いでも全然自分がわからなくて、よく「今日は顔がパンパンに浮腫んじゃって」という表現を聞くけれど、自分の顔の違いがわからない。
通院しているときに医者から「足が浮腫んだりしない?」と聞かれたときには、真顔で「むくむって何スか?」と聞いて苦笑いされてしまった。
禁煙したからってメシが美味くなるわけでも、目覚めが良くなるわけでもない。前後で体調の変化はなかった。と、思う。どちらにせよ断定ができない。
「⚪︎⚪︎をすると⚪︎⚪︎になるよ」という事象について、身体の変化を理解できた試しがない。
逆にいえば、睡眠時間がどれほど短くても朝は目覚めることができる。等しく昼間は眠い。
そんな話を友達にしたら、「自分の変化に気づかない人は、周りの変化に気づくって言いますからね」と言われた。彼女は逆で、周りのことはわからないけれど、自分のことはわかると言っていた。
この理論でいくと、わたしは周りのことがわかるタイプということだけれど、結局こんなものは比較のしようがないので、何とも言えないのだけれど。「自分のことがわからないわたしが、周りのことを人よりほんの少しでも理解していたらちょっとは救われるんじゃないかな」などと思った。自分も他人も何もわからないんじゃ、寂しすぎるじゃん?
めけは、どう思う?
という話を、ここ1ヶ月以上のあいだ、心の中でめけに問いかけていた。次回にしようと思っていたけれど、今日書けたのでよかった。天才かもしれない(うまくいったときに自分を褒めるということは、大切なことである)
兎にも角にも、手紙を書けてよかった。
つまり、めけの手紙に共感したということだ。
本当にそうだよなあ。
義務とか義務じゃないとか、そういう括りを全部捨てても書くことが好きだったらよかったのに。そこまでの情熱や才能がなくても、ふらふらと書き続けていきたいものである。ふらふらと
また手紙書きます。
このあいだ会ったときすごく眠くて(今思えば、具合が悪かったのかもしれない。よくわからなかった)、何を話したかよく覚えていないので、何でもいいからまた話して欲しい。
拝啓 めけめけさま
2024年9月12日 ねる
▼今までの手紙
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