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これからも、わたしと旅をしてください。

その日、わたしは慌てていた。
年末の休暇が始まるまで、あと数日。
キリのいいところまで進めたい、と思ってはいるけれど、たどり着くまでに業務が増え、ゴールテープがどんどん遠くなってゆくのが仕事だ、と思う。
少なくとも、いまのわたしの業務に関してはそんな感じだった。
電話が鳴っても、郵便物が届いても仕事は増えるばかり。

「明日にすればいい」が通用しないのが年末で、とにかくわたしは慌てていた。
やればやるほどに仕事が増えて、「あ、これも足りない」と気づいて、繰り返して、優先順位をつけて、時間配分をしなければならない。
と、時計を見たときだった。

止まっている。
時間は、5時30分。
ああ、いつからだろうって、いつかの5時半からなんだ。
今朝か、昨日か、わからないけれど。
ああ、ついに止まったんだ。

ついに止まってくれたんだ、とも思った。

あの冬はいつだったか…と思い出してみれば、たった2年前。
2019年の、12月。

この年のわたしは、本当によく頑張った。
仕事もきっかり週5。へたしたら週6。休むことは悪だと思っていたから、連休もほとんど取らなかった。
この年は、短期で副業をしていたのだけれど、これが大変だった。
時間は掛かるし、プレッシャーも大きかった。そして、とにかく締切が短い。「明日までに」とか。いちばん短いのは「今晩中に」だった。
副業と平行して、曲を作ってライブで歌ったりもしていたんだった。

とにかくそういうことが一段落した冬だった。
何もできなくて、何をしていいのかもわからなくて。
燃え尽き症候群。からっぽ。
毎日仕事をして、疲れて。このころにはライブもほとんどできていなかったな。
摩耗して、そして、

そしてわたしは、表参道を歩いていた。
このころは表参道勤めで、原宿から表参道までの道を何度も歩いて。
ふらっと立ち寄ったスタージュエリーで、買った。

わけではなくて、確かにスタージュエリーの時計だし、最初はふらっと立ち寄ったのだけれど
気に入って、でも約2万の時計を即決する勇気はぜんぜんなくて。
それからもう一度お店に行って、3度目に試着をして、ようやく買うことにした。
今年はよく頑張った。
来年は、新しい時計でレベルアップしたわたしになろう。そう誓って。

その3ヶ月後に会社をクビになる、なんて想像もせずに。

無職になるとわかっていたら時計なんて買わなかったかもしれないけれど、買ってしまったものは仕方がない。
ほんとうは「去年よりオトナなわたし」でこの時計を装備するつもりだったけれど、外出の機会はぐんと減って、行く先はハローワークだけだった。

そして、ハローワークの帰りに針が止まってしまったんだ。

止まったと思って時計屋に向かったら、途中で動き出した。
「これじゃあ、電池変えられないね」というひとことよりも、
「機械のほうがダメになってるかもね」に、ひどくショックを受けたことを、いまでも覚えている。

あれから、時計が止まることはなかった。

そしてようやく電池が切れたんだ。
わたしは安心して、時計屋に向かった。
残業して、キリのいいところまで片付けて、頭はもういっぱいだったけど、早く直してあげるべき、と思った。

この時計を買ってから2年。
もうひとつくらいデイリーユースの時計を持っていてもいいのに、新しいものを買えなかった。
手持ちもいくつか腕時計はあるけれど、これがいちばんだったから。
これよりかわいい時計はない、わたしの一張羅だった。

「中を開けてみますね。直るタイプなら、30分位で終わります」
直らないタイプだったらどうしよう、と思ったけれど、しばらく経っても声を掛けられなかったので、きっと直るんだ。
わたしは安心しながら、店内をうろついた。
職場からたまたま近かったから来たお店だけど、高級な時計がずらりと並んでいる。
ああ、やっぱり時計って好きだな。
売ってるの、高級なものばかりでよかった。
大半の時計がわたしの一張羅より高価で、気軽に買えるような値段じゃなかったことに救われてしまった。

それでも、「電池交換は2000円になります」と言われて、「よかった」と思えた。
昔なら、「1000円で電池交換できるところ探そう」と躍起になっていたのに。
わたしの大切な時計を、2000円払って丁寧に診てもらえる、という気持ちに安心できるようになった。
このショーケースの高価な時計みたいに、きっと大事に扱ってもらえるんだろう。

20分足らずで時計は戻ってきた。
丁寧に電池交換の保証書、のようなものまで渡してくれた。

「1年以内に電池が止まるようだったら、故障かもしれません」と書かれているのを見つけたけれど、心はあんまりざわつかなかった。
もう、故障染みた状況を一度は乗り越えてくれたし、2年も使ったし。

永遠じゃなくてもいい。
それでももう少し、わたしと旅をしよう。
憧れたおとなになれなくても、
失ったり選べなかったりしたことよりも、手に入れたものと今あるものを大切にするような生き方をしよう。
甘え過ぎたら叱れる強さも、忘れずに。
なにより、やさしく生きることを大切に。

小さな時計に、祈りを込めた。
そんなふうにこれからも、わたしと旅をしてください。

去年の春の写真。いまはもう、ベルトがぼろぼろになっちゃったな。


【photo】 amano yasuhiro
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