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折り合いのやさしさ

「折り合いをつけて、やっていくしかないね」

この数ヶ月で、何度も放たれた言葉だった。
元通りに動かなくなった、わたしの身体を慮って
わたしの苦しさを否定せずに、だからこそ苦い顔で
そう言ってくれる人がいた。

「ありがとうございます」
弱々しく、何度も答えた。

「折り合わないからつらいんだよォ」

最後まで、言えなかった。
言えるわけがなかった。
でも、本当にそう思っていた。
心はきちんと、叫んでいた。

職場に行く度に熱を出して、はち切れそうな頭痛で
そしてその頭痛は、鎮痛剤が効かないと知った。耐えるしかない。
自分を元気づけてくれる匂いも、食べ物の味もわからない。
平気で毎日40分散歩していた身体はいま、10分の道のりを15分かけて歩くのがやっとだった。
そして、いつ治るかわからない。
よくなったと思えば、がくんと悪くなるのを繰り返していた。

折り合うわけがない。
妥協点なんか、どこにあるんだろう。
わたしは、苦しいばかりだった。

ひとつきか、ふたつきくらい前のわたしは、そんなふうに思っていた。
今思えば、きちんと「ありがとうございます」なんて言いながら、心はずいぶんすなおに荒んでいたことを、立派だとすら思う。

少しずつ、暮らしやすくなってきた気がする。
身体がほんの少しずつ、よくなっていると思える。
それがどれほど、「元の暮らし」には遠いものだとしても。

「つらいけど、あんまり不幸だとは思っていない」と手紙に書いたのは、本心だった。
最近は、そんなふうに思う。

仕事中に、上司から電話が掛かってきた。
この人はいつも、休日に発生する業務を気にして、電話を掛けてきてくれる。

「お疲れさまです、松永です」と告げたあとの声は、ずいぶんとやさしかった。
「松永さん? 具合は大丈夫?」第一声がそれだった。
驚いて、でもすごく元気ってわけじゃないから嘘も吐けなくて「なんとか大丈夫です。お気遣いありがとうございます」と告げたら、「本当に無理はしないでね」と言ってくれた。

この人は、少し前に「折り合いをつけていくしかないね」と苦い顔で言った人だった。
「それができてたら苦労しないよォ」と、わたしはあのとき言えなかったし、言うべきじゃなかった。

そして、わたしは知っていた。
別の上司から、聞いていた。
「Aさんとふたりで話したときにね、”松永さんはとにかく、身体を大事にしてくれていればそれでいい”って。それが、Aさんとわたしの共通の思い。それだけです」
この言葉は、いまでもあたたかく、やさしくわたしの心に響いている。

わたしはようやく、気づくことができた。
折り合いをつけて、と言ってくれた人たちは、無理をしないでと、本当に願ってくれている。
その、「無理」っていう曖昧なラインを引く基準ですら、わたしに委ねてくれている。

「折り合いをつけて」と言ってくれたのは、
「頑張らなくていい」「生きてくれていればいい」という願いなのだと、
「あなたがすこやかであることがいちばんです」という、なんともやさしい愛情なのだと。

わたしはいま、ようやく理解している。

「折り合いなんかつかない」と駄々をこねていたわたしのことを、愛している。
そうやってのたうち回らないと、「折り合い」にたどり着かなかったのだと思う。
まずは、状況を理解すること。
そのために、苦しいと泣き叫ぶことだって、わたしには必要だった。
そしてそこから、妥協点を探すこと。

仕事の量は減らして、
散歩に行けないことを寂しいと思う代わりに、わたしは花を買って愛でる。
コーヒーは不味いままだけど、好きだからどうしても飲みたい。だから飲む。

ぜんぶ病気のせい、みたいな気もしていたけれど
もともと、あんまりまじめな人間じゃなかった、と気づいたりもした。

逃げられることからは、逃げたっていい。
そこが、妥協点かもしれない。
「うちの会社にくれば、毎日リモートワークできるよ」と声をかけてくれた人がいた。
それも、有りなのかもしれない。と思えている。

ただ、
ただ、どこまで行っても
わたしはこれからの人生で「折り合い」のやさしさを忘れない。

折り合いは、許しの言葉だった。
「あなたのペースを見つけてね」「そのペースを応援するよ」っていう
なんとも、愛情深い言葉だと気づけたことを

もし、わたしがどこかで忘れていたら、叱って欲しい。



【photo】 amano yasuhiro
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