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ブリオッシュなんてなくても

コーヒーを飲もうとしただけなんだ。
信じて欲しい。

外でコーヒーを飲むということは、手帳を開くということで
手帳を開くということは、わたしにとってとても大切なことだった。

とても大切なのに、家では手帳をうまく開けない。
なぜだろう。
エッセイを書くこと、手紙を書くこと、ピアノを弾くこと
家では面倒だと思っていた大半を乗り越えられたわたしなのに、手帳ばかりはカフェで開くのがお約束となっていた。

だから信じて欲しい。
コーヒーを飲もうと思った。
コーヒーを飲んだら、手持ち無沙汰になって手帳を開くと信じていた。
わたしは、手持ち無沙汰が苦手だった(だから煙草とは相性の良い人間だった)

ふらりと立ち寄ったここは、座ってコーヒーが飲める場所であり、パン屋だった。

パン屋
ああなんと美しい響きだろう。
パンはコンビニでもスーパーでも買えるのに。
うちの近所のスーパーのパンは美味しいとわかっているのに。
ああ、パン屋。
この世からパン屋が消えても、パンは食べられる。
それなのに、この世からパン屋は消えない。

まるで、口の細いケトルみたいだった。
コーヒーを淹れるためだけのケトル。
なくても決して困らない。
でも、美味しいコーヒーを飲むために必要だった。
もう十年以上一緒に暮らしている。



つまり、ここはパン屋なのだ。

パン屋なので、パンを買うべきだ。と思った。
でも、強い意志で食べたいと思えるパンはなかった。
代わりに、「パンを買うとコーヒー50円引き」というポップを見つけてしまった。

悩んだ結果、3個入りのオレンジブリオッシュにした。
これをひとかけ、というのがちょうど良いように思う。



ダイエットについては、また別の機会に詳しく話したいのだけれど、2ヶ月ほど継続している。
オートファジー、16時間ダイエットと呼ばれるもので、8時間好きなものを食べる→16時間食べない。を毎日繰り返す。

このダイエットの結果起こったことは様々だけれど、「強い意志で食べる」という感覚を身に着けたことは、画期的な体験だった。

今まではなんとなく食べたり、食べなかったりしていたのだけれど
日に8時間しか食べられない。
ということは、16時間の断食明けには空腹だし、断食に入る前はきちんと食べたい。
不用意に食べ続けて、ばんごはんを食べ損ねるわけにはいかないのだ。

甘いものもけっこう食べているけど、食べたいときだけにしている。
今までだって食べたいときだったろう?と思うかもしれないけれど、たぶんひまだから食べたりしてた。
あと、口寂しいとか。なんだか満腹にならないとか
で、食べ過ぎて気持ち悪くなる。

最近は食べ過ぎることもなくなった。
もともとまぬけなタチなので「満腹になりましたよ」「このあと16時間は食べませんよ」と言い聞かせると、なんとかなるものだった。
(ただ、はじめたばかりの1〜2週間は本当に苦しかったことだけは伝えておく)



何が言いたいかって、わたしは今までの「腹が減ったら食べる」という原始人暮らしを脱却したのだ。
それは「腹が減らなければ食べない」と「満たされなければ永遠と食べ続ける」ということも、卒業したことを意味する。

今は、食べることに真摯に向き合っている。
食べたら満腹になるようにお祈りをしている。



コーヒーにミルクを落としてから、手帳を開く。
前回に手帳を開いたのは2週間近く前で、やっぱりカフェだった(スターバックス で限定のメロンフラペチーノを飲んだと書いてある)

窓の外をぼおっと見て、それから手帳に日記を書く。
2週間まとめてでも、書くようにしている。
これは大切な儀式だった。

儀式は滞りなく進み、景色を見て、コーヒーを飲んで、手帳を埋める。

そして、ブリオッシュに手を伸ばした。

べつに空腹ではない。
甘いものをどうしても食べたいか、と問われたらそうでもない。
このパンは袋に入っていて、そのまま持ち帰ったって構わない。
それなのに、袋についた大きなシールを剥がす。
パン屋だから、パンを食べるのは当然と云うように

そして、かぶりつく。



それは、噛み切らずともふわりと溶けるようだった。
オレンジっていうのはさっぱりとしながら、どうしてこんなに甘やかな気持ちにさせてくれるんだろう。
そして、白く固まったじゃりっとした砂糖。

口に含んで、儀式に戻る。
そしてまた食べる。

そして、もし……と想像する。

もし、オレンジブリオッシュにカロリーとか、砂糖とか、わたしを太らせる要素を含んでいなかったとしたら
きっとコーヒーより、オレンジブリオッシュを選び続けるだろう。

コーヒーが好きなんて嘘だ。
そんな気さえする。
ブリオッシュがわたしの身体に害を与えず、
幸福のみをもたらすのであれば、飽くことなく飲み込み続けていたい。
それは、コーヒーとの一生を失ってもいい。とすら思えた。

ただそれは想像であり妄想で
ブリオッシュばかり食べてはわたしの身体はだめになる。
ブリオッシュは、ご褒美だからよいのだ……



それにしても、「食べなくても良いもの」というものは、こんなにも幸福であったか。
わたしは、うっとりする。

すごく食べたいという意思もなく
食べても、食べなくてもよくて
これを食べたから頑張らなければいけない、ということも
ブリオッシュを引き換えに晩ごはんを失う。ということもなかった。

犠牲のないブリオッシュ。
必要のない時間。

ああ、なんと美しいんだろう。
なくてもいいもの、というのはこんなにもわたしを満たす。

パン屋とケーキ屋
口の細いケトル
ふたつめの枕(枕はひとつあれば充分だということくらい知っている)
花瓶(コップだって花は生きる)
壁に飾られたいくつものポストカードも、
指先を彩るネイルも指輪も、なくたって生きていける。

ああ、なんと美しんだろう。
うっとりする。

なくてもいいものだけ、で生きてゆければいいのに。とすら思う。
タンパク質だのビタミンなんか気にせずごはんを食べて、
必要だからなんてまっとうな理由で帽子をかぶったりストールを羽織ったりせずに
べつになくてもいいキーホルダーばっかりかき集めて暮らしたい。



夏至を少し越えたと言っても、まだ日差しは充分すぎるほど長かった。
お気に入りの帽子を深く被る。
わたしはおとななので、利便性や効率も大切にしながら、自分の身体を守りながら暮らしている。

鞄の中で、残りのブリオッシュが揺れる。
冷やしても美味しいんだって。たのしみだなあ。

残りは明日の昼ごはんになってしまうだろう。
それでもそれでいいと思う。

不要には不要の
必要には必要の
ごはんにはごはんの
おやつにはおやつの
それぞれの良さがあって

わたしは次にきっと、「お昼から食べてしまう甘いブリオッシュの幸福」というエッセイを書くだろう。







※それは、パティスリー・マロンの袋だった。

※実際にへんだし





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