ブリオッシュなんてなくても
コーヒーを飲もうとしただけなんだ。
信じて欲しい。
外でコーヒーを飲むということは、手帳を開くということで
手帳を開くということは、わたしにとってとても大切なことだった。
とても大切なのに、家では手帳をうまく開けない。
なぜだろう。
エッセイを書くこと、手紙を書くこと、ピアノを弾くこと
家では面倒だと思っていた大半を乗り越えられたわたしなのに、手帳ばかりはカフェで開くのがお約束となっていた。
だから信じて欲しい。
コーヒーを飲もうと思った。
コーヒーを飲んだら、手持ち無沙汰になって手帳を開くと信じていた。
わたしは、手持ち無沙汰が苦手だった(だから煙草とは相性の良い人間だった)
ふらりと立ち寄ったここは、座ってコーヒーが飲める場所であり、パン屋だった。
パン屋
ああなんと美しい響きだろう。
パンはコンビニでもスーパーでも買えるのに。
うちの近所のスーパーのパンは美味しいとわかっているのに。
ああ、パン屋。
この世からパン屋が消えても、パンは食べられる。
それなのに、この世からパン屋は消えない。
まるで、口の細いケトルみたいだった。
コーヒーを淹れるためだけのケトル。
なくても決して困らない。
でも、美味しいコーヒーを飲むために必要だった。
もう十年以上一緒に暮らしている。
*
つまり、ここはパン屋なのだ。
パン屋なので、パンを買うべきだ。と思った。
でも、強い意志で食べたいと思えるパンはなかった。
代わりに、「パンを買うとコーヒー50円引き」というポップを見つけてしまった。
悩んだ結果、3個入りのオレンジブリオッシュにした。
これをひとかけ、というのがちょうど良いように思う。
*
ダイエットについては、また別の機会に詳しく話したいのだけれど、2ヶ月ほど継続している。
オートファジー、16時間ダイエットと呼ばれるもので、8時間好きなものを食べる→16時間食べない。を毎日繰り返す。
このダイエットの結果起こったことは様々だけれど、「強い意志で食べる」という感覚を身に着けたことは、画期的な体験だった。
今まではなんとなく食べたり、食べなかったりしていたのだけれど
日に8時間しか食べられない。
ということは、16時間の断食明けには空腹だし、断食に入る前はきちんと食べたい。
不用意に食べ続けて、ばんごはんを食べ損ねるわけにはいかないのだ。
甘いものもけっこう食べているけど、食べたいときだけにしている。
今までだって食べたいときだったろう?と思うかもしれないけれど、たぶんひまだから食べたりしてた。
あと、口寂しいとか。なんだか満腹にならないとか
で、食べ過ぎて気持ち悪くなる。
最近は食べ過ぎることもなくなった。
もともとまぬけなタチなので「満腹になりましたよ」「このあと16時間は食べませんよ」と言い聞かせると、なんとかなるものだった。
(ただ、はじめたばかりの1〜2週間は本当に苦しかったことだけは伝えておく)
*
何が言いたいかって、わたしは今までの「腹が減ったら食べる」という原始人暮らしを脱却したのだ。
それは「腹が減らなければ食べない」と「満たされなければ永遠と食べ続ける」ということも、卒業したことを意味する。
今は、食べることに真摯に向き合っている。
食べたら満腹になるようにお祈りをしている。
※
コーヒーにミルクを落としてから、手帳を開く。
前回に手帳を開いたのは2週間近く前で、やっぱりカフェだった(スターバックス で限定のメロンフラペチーノを飲んだと書いてある)
窓の外をぼおっと見て、それから手帳に日記を書く。
2週間まとめてでも、書くようにしている。
これは大切な儀式だった。
儀式は滞りなく進み、景色を見て、コーヒーを飲んで、手帳を埋める。
そして、ブリオッシュに手を伸ばした。
べつに空腹ではない。
甘いものをどうしても食べたいか、と問われたらそうでもない。
このパンは袋に入っていて、そのまま持ち帰ったって構わない。
それなのに、袋についた大きなシールを剥がす。
パン屋だから、パンを食べるのは当然と云うように
そして、かぶりつく。
*
それは、噛み切らずともふわりと溶けるようだった。
オレンジっていうのはさっぱりとしながら、どうしてこんなに甘やかな気持ちにさせてくれるんだろう。
そして、白く固まったじゃりっとした砂糖。
口に含んで、儀式に戻る。
そしてまた食べる。
そして、もし……と想像する。
もし、オレンジブリオッシュにカロリーとか、砂糖とか、わたしを太らせる要素を含んでいなかったとしたら
きっとコーヒーより、オレンジブリオッシュを選び続けるだろう。
コーヒーが好きなんて嘘だ。
そんな気さえする。
ブリオッシュがわたしの身体に害を与えず、
幸福のみをもたらすのであれば、飽くことなく飲み込み続けていたい。
それは、コーヒーとの一生を失ってもいい。とすら思えた。
ただそれは想像であり妄想で
ブリオッシュばかり食べてはわたしの身体はだめになる。
ブリオッシュは、ご褒美だからよいのだ……
※
それにしても、「食べなくても良いもの」というものは、こんなにも幸福であったか。
わたしは、うっとりする。
すごく食べたいという意思もなく
食べても、食べなくてもよくて
これを食べたから頑張らなければいけない、ということも
ブリオッシュを引き換えに晩ごはんを失う。ということもなかった。
犠牲のないブリオッシュ。
必要のない時間。
ああ、なんと美しいんだろう。
なくてもいいもの、というのはこんなにもわたしを満たす。
パン屋とケーキ屋
口の細いケトル
ふたつめの枕(枕はひとつあれば充分だということくらい知っている)
花瓶(コップだって花は生きる)
壁に飾られたいくつものポストカードも、
指先を彩るネイルも指輪も、なくたって生きていける。
ああ、なんと美しんだろう。
うっとりする。
なくてもいいものだけ、で生きてゆければいいのに。とすら思う。
タンパク質だのビタミンなんか気にせずごはんを食べて、
必要だからなんてまっとうな理由で帽子をかぶったりストールを羽織ったりせずに
べつになくてもいいキーホルダーばっかりかき集めて暮らしたい。
*
夏至を少し越えたと言っても、まだ日差しは充分すぎるほど長かった。
お気に入りの帽子を深く被る。
わたしはおとななので、利便性や効率も大切にしながら、自分の身体を守りながら暮らしている。
鞄の中で、残りのブリオッシュが揺れる。
冷やしても美味しいんだって。たのしみだなあ。
残りは明日の昼ごはんになってしまうだろう。
それでもそれでいいと思う。
不要には不要の
必要には必要の
ごはんにはごはんの
おやつにはおやつの
それぞれの良さがあって
わたしは次にきっと、「お昼から食べてしまう甘いブリオッシュの幸福」というエッセイを書くだろう。
※それは、パティスリー・マロンの袋だった。
※実際にへんだし
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