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Don’t say don’t

コーヒーを飲んで、手帳を開く。
そうすれば、どんなわたしも救われる。

眠くても
やる気がなくても
もうだめだ、と落ち込んでいても
もやもやから抜け出せない、と唇を噛んでいても

最近自分がしたことを書き出せば、
「よく頑張ったなあ」または
「よく休んだなあ」と思う。
不思議とこれは、必ずどちらかになる。

そして、思っていることを書き出す。
そうしているうちに、息を吹き返す。
いつもの、わたし。

もやの中に突っ込んでいって
それを晴らすことを繰り返すように生きてきたけれど
いま、大きな”憑き物”を蹴飛ばしているような
たぶん、そういう時期のような気がしている。
理由もわからず、後生大事に連れてきてしまった憑き物を、手放す。

「羨ましい」という感情がひとつ、それのような気がしている。

そろそろ、誰かを羨ましく思うことにも疲れた。
そしてそれは、「誰かを羨ましく思っているわたしが強く存在している」と認めた合図でもある。

もう、よかろう。

エッセイ "燃え上がらないような暮らしの果てに"

これを書いたときに、本当に「もういいんだ」と思った。

なんでもかんでも羨ましがるのをやめる

手帳には、そう書くつもりだった。
いつも誰かや何かと比べて、足りないものばかり数えてしまう。
“誰か”という対象と、”自分”が”持っていない”という物語は、実にわかりやすかった。

それは、「幸福になりたいお姫様」より、明快だ。
だってわたしがお姫様ならば、
政略結婚でらくをしたのか
お金よりも愛が必要なのか
そもそも結婚したくないんだっけとか
だとしたらその理由は?
政治へはどれくらい関与したいのかとか
学ばなければいけないこともたくさんあって
幸福についてかなり考えないとたどり着けない。

「愛があれば」とか「お金があれば」とか、そりゃあ思う。
自分より持っている人と比べて、勝手に落ち込む。

落ち込んでいる場合ではない、と言い聞かせる。
「羨ましがっている場合ではない」、と
わたしは、羨ましいという気持ちそのものが卑しい気がして、ふたをした。

ああ、ちがう。
そうじゃない。
「羨ましがるのをやめる」
この言葉が、そもそも暴力的だ。

なにかを羨ましがるのも、ほどほどにする。

これが、正しい答えだった。

「Don’t say don’t」というのは、敬愛する作家が使っていた。
確か、短編のタイトルだったと思う。

「ダメだって言うな」
そんなふうに訳されていて、
それは、十代のわたしの心をぎゅっと掴んだ。
そして、この言葉がずっとわたしの心臓を掴み続けていて欲しい、と呪った。
大切な言葉だと、確信していた。

いま、思い出している。
Don’t say don’t
ダメだって言うな。
この言葉を大切に連れてきたつもりが、実はいろんなことを「ダメだ」って思い込んでいたということに
ようやく気がついた。

だから、「ほどほどにする」っていうのは、なかなか良い表現だと思う。

これからのわたしが「やめる」と言ったときには、
自分を疑ってくれますように。
0か100じゃない世界を、ほどほどのやさしい世界を
生きてくれますように。




※「もう、よかろう」な物語

※「Don’t say don’t」を教えてくれた敬愛するひと


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