Don’t say don’t
コーヒーを飲んで、手帳を開く。
そうすれば、どんなわたしも救われる。
眠くても
やる気がなくても
もうだめだ、と落ち込んでいても
もやもやから抜け出せない、と唇を噛んでいても
最近自分がしたことを書き出せば、
「よく頑張ったなあ」または
「よく休んだなあ」と思う。
不思議とこれは、必ずどちらかになる。
そして、思っていることを書き出す。
そうしているうちに、息を吹き返す。
いつもの、わたし。
*
もやの中に突っ込んでいって
それを晴らすことを繰り返すように生きてきたけれど
いま、大きな”憑き物”を蹴飛ばしているような
たぶん、そういう時期のような気がしている。
理由もわからず、後生大事に連れてきてしまった憑き物を、手放す。
「羨ましい」という感情がひとつ、それのような気がしている。
これを書いたときに、本当に「もういいんだ」と思った。
手帳には、そう書くつもりだった。
いつも誰かや何かと比べて、足りないものばかり数えてしまう。
“誰か”という対象と、”自分”が”持っていない”という物語は、実にわかりやすかった。
それは、「幸福になりたいお姫様」より、明快だ。
だってわたしがお姫様ならば、
政略結婚でらくをしたのか
お金よりも愛が必要なのか
そもそも結婚したくないんだっけとか
だとしたらその理由は?
政治へはどれくらい関与したいのかとか
学ばなければいけないこともたくさんあって
幸福についてかなり考えないとたどり着けない。
「愛があれば」とか「お金があれば」とか、そりゃあ思う。
自分より持っている人と比べて、勝手に落ち込む。
落ち込んでいる場合ではない、と言い聞かせる。
「羨ましがっている場合ではない」、と
わたしは、羨ましいという気持ちそのものが卑しい気がして、ふたをした。
ああ、ちがう。
そうじゃない。
「羨ましがるのをやめる」
この言葉が、そもそも暴力的だ。
これが、正しい答えだった。
*
「Don’t say don’t」というのは、敬愛する作家が使っていた。
確か、短編のタイトルだったと思う。
「ダメだって言うな」
そんなふうに訳されていて、
それは、十代のわたしの心をぎゅっと掴んだ。
そして、この言葉がずっとわたしの心臓を掴み続けていて欲しい、と呪った。
大切な言葉だと、確信していた。
いま、思い出している。
Don’t say don’t
ダメだって言うな。
この言葉を大切に連れてきたつもりが、実はいろんなことを「ダメだ」って思い込んでいたということに
ようやく気がついた。
だから、「ほどほどにする」っていうのは、なかなか良い表現だと思う。
これからのわたしが「やめる」と言ったときには、
自分を疑ってくれますように。
0か100じゃない世界を、ほどほどのやさしい世界を
生きてくれますように。
※「もう、よかろう」な物語
※「Don’t say don’t」を教えてくれた敬愛するひと
※now playing
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