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百年の祈り

4月に、吉本ばななさんの「とかげ」という本を読んだ。

3月中は本を買いすぎてしまって、どれもよくて。
本棚の積載量を考えると、買ってばかりもいられない。
ということで手持ちの、内容をちょっと覚えていないような本を手に取った。

この本が、いつから本棚にあるかわからない。
ブックオフの値札がついていたから、二十歳くらいから、二十代の中頃に買ったんじゃないかなあ。と思う。
町田のブックオフが好きだった。
広いフロアで、4階くらいまであった。
いまはあるかわからないけれど、当時はよく通っていた気がする。

小説の内容っていうのは、覚えていないけれどきちんと思い出す。
なんというか、匂いみたいなもの。
ときどき「ああ、知っている」と思う。
どれだけ忘れたような気がしても、初めて見聞きするような、あのときめきは永遠に手に入らない。
それはそれで美しいことだ、と思っているのだけれど。

むかしはなんとなくそれが嫌で、
同じ本ばっかり読んでいるというのも、視野が広げられずに格好悪いと思っていた。
でも、小説の好き嫌いっていうのが結構はっきりあって
あのころは、江國香織さんと、吉本ばななさんの本ばっかり買っていた。
あとは、鷺沢萠さん。
わたしの本棚には今でも、ブックオフの値札がついた彼女たちの本が多い。

おとなになって、こんなせりふに共感した。

女は小さな分身の小物で部屋をいっぱいにする

二十代の中頃のわたしにはわからなかった、と思う。
あのころわたしは、ひとりの部屋に好きなものを並べて暮らしていた。
それが当然で、分身だなんて思わなかった。
いまは、ちょっとわかる。
確かに、分身だと思う。

そして、懐かしいせりふに出会って息を呑んだ。
たしかに、懐かしいと思った。

一体いつのわたしだろう。
20歳の、23歳の、怪我をしたときの、恋人と住んでいたころの、ひとりで座ったキッチンの、そして30歳の
たぶん、すべてのわたしだと思う。

飛び込んでいくのだ、新しいわずらわしさに

わたしはいつも思う。
わたしも飛び込まなくては、と。
それは、今のわたしがあんまり飛び込めていない、ということを意味している。
いつもそう。いつも足りない。
飛び込まなくては
飛び込むことは怖い。
そして当然わずらわしいのである、ということを再確認する。
だって通い慣れた道のほうが、絶対に気がらくだ。
安全かどうかは知らないけれど。

ああ、百年経ってもどうか
魂の一部だけは、あの日と言葉に感動してくれたりしないだろうか。
あんまり器用に、立派におとなにならなくていい。

どうか、賢くて安全な道ばっかりいかないでおくれよ。






※色褪せない、ばななわーるど

※いまでも、覚えている。

このラナンキュラスの横顔、すごくお気に入りだった。

※now playing





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