やさしい願い

ぼおっと、カレンダーを見つめる。
ときどき気づくと、そうしている。

カレンダーを部屋に飾る、という習慣は比較的早く根付いた。
小学生か、中学生くらいのときに読んだ漫画で、カレンダーに毎日バツをつけてゆくシーンがあって、それを真似た。
大学生とか、20代の半ばくらいまでは、なんだかやたら日々が慌ただしい”感じ”がして、カレンダーを使っていなかったような気がするんだけど。
やっぱり近年のわたしは、カレンダーなしの暮らしなんて考えられない。

なんとなく、母もカレンダーが好きだったように思う。
そんな話をしたことはないけれど、そんな気がする。

カレンダーはふたつあって、
自室は安野モヨコ先生の壁掛けカレンダー。2年目。
気に入っているので来年も買うつもり。
これは、美しくて、いさましくて、やさしくて、
20代のわたしが「毎月、好きな絵画を部屋に飾るような気持ちでカレンダーを使用するのはどうだろうか」と思っていた頃の、名残。
いまでも、その考え方は悪くないなあ、と思っている。

リビングは、ポケモンのカレンダー。
これは、家族の予定が書き込まれている。
最近、わたしは書くことをサボっているので、もっぱら同居人の予定を確認する用だ。
これで、彼が朝出掛ける時間と、帰ってくるであろう時間のおおよその目安がわかる。

へえ、と眺める。
お疲れ、と頷く。

ふいに、1週間前の予定に目を向ける。
はて、1週間前の今日は、何をしていたっけ。
ぜんぜん、思い出せない。
仕事に行ったかどうかですら、書いてないからわからない。

最近は自分の行動メモを取ることも、手帳に日記を書くことも辞めてしまった。
これは、「なんとなく健全な感じで生きるため」に記していたもので、ここ数ヶ月のわたしは健全さを求めなくなった。
ただ、生きていればいい、と思っている。

そんなふうにしていると、1週間前のことも思い出せない。
ぼおっと暮らしているのだから、思い出すほどのこともないのでしょうけれど。

日々を記していたわたしは、「昨日を思い出せないこと」を妙に恐れていた。
思い出せないと、なかったことになってしまうような気がしていた。
いや、厳密に言うとちょっと違う。なかったことにはならないんだけど、自分で自分を褒めたり叱咤することができなくなってしまう、それが不安だった。
「頑張ったからちょっと休もう」とか、「よく休んだからもう一度頑張ろう」とか、そういう道標が、わたしには必要だったんだと思う。

いまは、たくさん休む時期だから、すべての指針を投げ放って眠っている。
いま、この身体を維持することに、すべてを賭けて。

それはそれで、すこやかなことに思う。

わたしの頭の中の、隙間が増えたか減ったかは定かではないけれど
「何を覚えているか」を、もっともっと直感で決めていいということ。のような気がする。

なにを覚えているのか
なにを大切にするのか

どうせすべては抱えきれないのだから、
わたしという船に、何を載せていくのか。

吟味しない、精査しない、
気の赴くまま、船は進み、荷は増えるというならば

どうか、やさしいものが残りますように。
苦しいものの中で、この先の原動力にもならないようなものは、きちんと捨てられますように。
そんな直感が、これからも働きますように。


ああこれは、
なんとやさしい願いだろう。




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