シャネルの口紅
だめだなあ、と思う。
よく思う。
なにがだめなのか、って
近年それはある意味はっきりしていて
ひとつは、
やろうと思っていたことが、できていないこと。
やろうと思っていたことが、やらなきゃいけないことになってしまって
なんだか首を絞めて
ただ、何もしないでここに座っていること。
ひとつは、
“何か”が足りない、と思っていること。
何が足りないかわからなければ努めようがないから、不安は不安のままだった。
または、”何か”が少しずつ形を成しているとき(例えばそれはお金だったり、他者との比較が多いような気がする。または、健康のこと)
その形に、どう立ち向かうでもなくて「不安だなあ」とつぶやいている。
結局、ただ何もしないでここに座っているということ。
だめだなあ、と思ってここにいる。
言葉にするとすごく自虐的な人のような気がするけど
ある意味そうで
また別の意味では、ずいぶん太い性格をしているような気がしている。
わたしは、手堅いものや安寧に、あまり手を伸ばさない。
それはきっと不安の天敵であり、
不安はわたしの、憎くも親しい友なのだと思う。
*
そんなふうに、「不安は友達だ」なんて笑い飛ばせる夜があるのと同じくらい
もうどうしようもなくて
ぜんぶ蹴飛ばしたいような夜もある。
走ったり叫んだりしたいような、そういう感覚だけれど、実際はどちらもしなかった。
わたしはぼおっとここに座って、
諦めて執筆するか、エッセイを書くか
また同じように諦めて、この席を立ったりもする。
わたしの人生は、諦めることでできているのかもしれない。
*
最近は、シャネルの口紅を眺めている。
黒くてつやっとして、
真ん中に金色の、太いラインのついたその外観。
いくつも持っていて、1本だけ太いのがあるけれど、
ぜんぶ色が違って、外見は一緒だった。
*
シャネルの口紅を、自分で買ったことはない。
買い物が好きな友達から、お下がりを譲り受けている。
彼女は買うことで欲を満たしていることと
買い続けていたら、部屋がパンクすることを理解している。
だから、彼女の新しい口紅と引き換えに、お古の口紅は定期的にうちに身請けされる制度ができている。
もう、何本も。
それぞれ色が違っていて、どれもかわいくて
わたしは、うっとりする。
最初にもらった1本は、まだ二十代のころで
そのときわたしは口紅を1本も持っていなくて
マジョリカマジョルカのリップグロスだけを信じていた。
真っ赤なシャネルの口紅は、幼いわたしの顔からはくっきりと浮いて見えた。
似合わない。
だから、人前に立つときだけ、お守りみたいにつけていた。
それから、大切なお出かけのときに。
それから、使う頻度を増やしていくころには、自然と馴染むようになっていた。
いまでは、部屋でもシャネルの口紅を塗る。
それは、魔法みたいに
どうしようもないモンスターみたいな自分の顔が
どんなときでもこの赤ひとつで、許されるような
適切に、人間でいられるような
そんな気分にさせてくれる。
*
口紅は化粧ポーチか、低いペン立て(ハロウィンの、コウモリの羽みたいな赤い羽根が持ち手で、耳がついているコップ)に収まっているのだけれど
最近はなぜだか、デスクの上に転がっていた。
化粧をしたあとに、ポーチじゃなくてそのへんに置いている。
という日々が、続いていたんだと思う。
ちょうど、何かを見失うような今日このごろだった。
こてんと転がるシャネルの口紅を見て
きちんと片付けなければ、なんて思う前に
なぜだか「だいじょうぶだ」と思えた。
何かを、何度見失っても
シャネルの口紅を塗って、きちんと微笑むことができたならば。
わたしがモンスターになったり液状化したって、
きちんと人間に戻ってこられるような
そんな気がしている。
シャネルの口紅は、
今日もわたしの、やさしくて勇敢な記憶を携えている。
だっていままでもそうして
いつでも笑って、ここまできたじゃないか。
※2022年10月19日 シャネルの口紅
※now playing
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