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シャネルの口紅

だめだなあ、と思う。
よく思う。

なにがだめなのか、って
近年それはある意味はっきりしていて

ひとつは、
やろうと思っていたことが、できていないこと。
やろうと思っていたことが、やらなきゃいけないことになってしまって
なんだか首を絞めて
ただ、何もしないでここに座っていること。

ひとつは、
“何か”が足りない、と思っていること。
何が足りないかわからなければ努めようがないから、不安は不安のままだった。
または、”何か”が少しずつ形を成しているとき(例えばそれはお金だったり、他者との比較が多いような気がする。または、健康のこと)
その形に、どう立ち向かうでもなくて「不安だなあ」とつぶやいている。
結局、ただ何もしないでここに座っているということ。

だめだなあ、と思ってここにいる。

言葉にするとすごく自虐的な人のような気がするけど
ある意味そうで
また別の意味では、ずいぶん太い性格をしているような気がしている。
わたしは、手堅いものや安寧に、あまり手を伸ばさない。
それはきっと不安の天敵であり、
不安はわたしの、憎くも親しい友なのだと思う。

そんなふうに、「不安は友達だ」なんて笑い飛ばせる夜があるのと同じくらい
もうどうしようもなくて
ぜんぶ蹴飛ばしたいような夜もある。
走ったり叫んだりしたいような、そういう感覚だけれど、実際はどちらもしなかった。
わたしはぼおっとここに座って、
諦めて執筆するか、エッセイを書くか
また同じように諦めて、この席を立ったりもする。
わたしの人生は、諦めることでできているのかもしれない。

最近は、シャネルの口紅を眺めている。

黒くてつやっとして、
真ん中に金色の、太いラインのついたその外観。

いくつも持っていて、1本だけ太いのがあるけれど、
ぜんぶ色が違って、外見は一緒だった。

シャネルの口紅を、自分で買ったことはない。

買い物が好きな友達から、お下がりを譲り受けている。
彼女は買うことで欲を満たしていることと
買い続けていたら、部屋がパンクすることを理解している。
だから、彼女の新しい口紅と引き換えに、お古の口紅は定期的にうちに身請けされる制度ができている。
もう、何本も。

それぞれ色が違っていて、どれもかわいくて
わたしは、うっとりする。

最初にもらった1本は、まだ二十代のころで
そのときわたしは口紅を1本も持っていなくて
マジョリカマジョルカのリップグロスだけを信じていた。

真っ赤なシャネルの口紅は、幼いわたしの顔からはくっきりと浮いて見えた。
似合わない。

だから、人前に立つときだけ、お守りみたいにつけていた。
それから、大切なお出かけのときに。
それから、使う頻度を増やしていくころには、自然と馴染むようになっていた。

いまでは、部屋でもシャネルの口紅を塗る。

それは、魔法みたいに
どうしようもないモンスターみたいな自分の顔が
どんなときでもこの赤ひとつで、許されるような
適切に、人間でいられるような
そんな気分にさせてくれる。

口紅は化粧ポーチか、低いペン立て(ハロウィンの、コウモリの羽みたいな赤い羽根が持ち手で、耳がついているコップ)に収まっているのだけれど
最近はなぜだか、デスクの上に転がっていた。
化粧をしたあとに、ポーチじゃなくてそのへんに置いている。
という日々が、続いていたんだと思う。
ちょうど、何かを見失うような今日このごろだった。

こてんと転がるシャネルの口紅を見て
きちんと片付けなければ、なんて思う前に
なぜだか「だいじょうぶだ」と思えた。

何かを、何度見失っても
シャネルの口紅を塗って、きちんと微笑むことができたならば。
わたしがモンスターになったり液状化したって、
きちんと人間に戻ってこられるような
そんな気がしている。

シャネルの口紅は、
今日もわたしの、やさしくて勇敢な記憶を携えている。

だっていままでもそうして
いつでも笑って、ここまできたじゃないか。





※2022年10月19日 シャネルの口紅


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