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夢を見ずにおやすみ

夢を見た。

よく、夢を見る。
内容を、うすらぼんやり覚えている。
多くは、眠る前に見たアニメとか、日頃考えていることとか、そういうことに引っ張られる。
そろそろ会いたいな、と思えば、友達の家の猫が出張出演してくれるように。
そして時折、現実に紐付かない夢も見る。

今日は、やさしい人の夢を見た。

やさしい人は、時折わたしの夢に訪れる。
そして必ず、わたしを助けてくれる。

迷っているときには手を引いてくれるし
如何ともし難い、そんなときには背中を撫でてくれる、
導き、許してくれる。
そういうひとだった。

疲れていると、そのひとの夢を見ることが多い気がする。
だから、やさしい人に会って目覚めると「ああ、疲れていたんだな」とか「よく頑張ったんだな」と思う。

「疲れた」と、口にするときには勇気がいる。
それは、目の前の人が誰だっても、相手だって疲れているだろう、と思うからだ。
みんなが各々のペースで力を尽くし、くたびれながら生きている。
わたしばっかり「疲れた」というのは、なんだか憚られてしまう。

だから、やさしい人に会ったそのときにようやく「お疲れさま」と抱き締めてあげることができる。
懸命に手足をジタバタさせて、遠くへ辿り着こうとした、わたしのことを。
夢の中で、そのひとが触れてくれた両手で

今日は、夢の内容をほとんど覚えていない。
ただ、間違いなくそのひとで
困っていたわたしの隣にぴったりと寄り添い、背中と、耳の裏を撫でてくれたような気がする。
何かから、守ってくれていた。

守られるのは好きじゃない。
もちろん、多くの事実や存在に守られながら生きているのは自覚しているけれど、塔の上のお姫様みたいにはなりたくなかった。
”脱獄ラプンツェル”という曲を書いた、あのころからわたしは変わっていない。

でも、そのひとの前だけでは
うんと守られて、腕の中にしまわれて、背中を撫でられて、ひとりにしないでくれて

目が覚めて、それが”やさしい人”であったことを確かめた。
間違えようがなかった。
それから、やわらかな毛布を抱き締めて、もう一度眠った。

もう、夢は見なかった。




※now playing

dear…



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