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今日は、サボろう

起きたときに、そう決めた。
よし、今日はサボろう。

どうしても、というほどではないけれど
朝のルーチンに入る気が起きなかった。
日頃のもやもやはまだ爆発していないけれど、導火線が短くなっているような気がする。
今日は、ソファーを居城に過ごす。

ごはんを食べたり(普段は日中そんなに食べない。面倒だし、眠くなるから)
アニメを見たり、漫画を読んだりする。
ソファーにいるだけでも、わたしの欲はだいたい満たされる。
そうだ、今日は逃げ回ろう。

ごろごろするのは好きだけど、
気づくとだいたい寝ている。
今日は、あんまり眠らず、代わりにあんまり何も考えず過ごした。

眠るのと、何もしないのは似ているようでちょっと違う。
「なにもしない時間」は、起きていないと発生しない。

一度煙草を吸いながら、ぼうっと自室を眺めた。
夜になったら今日もあそこに座って、何か書くのか……と気が遠くなった。
ほんとうに毎日、もう70日以上も懲りずに、あの席に座っていたのだろうか。
気が遠くなる、
それ以外の言葉はなかった。


さんざん逃げ回ったあと、観念して家事をした。
明日でもいいような気がしたけど、明日は同居人が休みだ。
やつが家にいるときの家事は、避けるようにしている。邪魔だし。
だから、今日サボると次の家事タイムは明後日
散らかった部屋を放置することに、きちんと耐えられなくなった。

たとえ、明日には同じくらい散らかっていたとしても

それからごはんを食べて、ゲームもして、やっぱりソファーに居座って
ようやくお風呂に入って、いまに至る。


日中の「あの席に座るのか」という、気の遠くなる感じはなくなった。
そしてわたしは、「逃げ続けることも不可能なのだ」と悟った。
それは「頑張り続けるのが不可能」というのと、同じだと思った。

対象が何であれ、「頑張り続ける」は至難の業だ。
それが継続できて、苦を感じなくなることがあれば、習慣化したということで、そうなれば少し話は違うけれど
「頑張る」という行為を続けるのは、なかなか難しい。

それと同じように、逃げ惑い続けることもできない。
なんとなく、そんな気がした。


もし、今なにかから「ずっと逃げている」と思っている人がいるならば、
何かに立ち向かった対価ではないだろうか。

その立ち向かった対象と、逃げている対象は違うかもしれない。
ピアノを弾かなきゃいけないのに、家事をすごく頑張ったからピアノから逃げちゃう。
そういうことかもしれない。
でも、家事を頑張った事実には変わりない。
少なくとも、多くの人は「仕事」というのを、ほとんど毎日頑張っているじゃないか。
あなたの24時間は、決して自由ではない。
その中でもう、家事だって、ごはんを作ったり食べたりすることだって、頑張ってるじゃないか…


最近のわたしは、確かに頑張っていたかもしれない。
逃げ出して、遠くから自分を見つめて
新しい自分の側面を知って、少しだけ許せるような気持ちになっている。


photo by amano yasuhiro


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