【人間関係】だれかを「助ける」には、まずは「自分」を整えようという話。
通勤時間は、音声配信アプリを使用しているJUNです。
かれこれ3年間ほど、インプットでお世話になっております。
様々な専門家の人がいろんな主張をする中でたくさんの気づきがあるのですが、先日「なるほど!」と思ったのが、
「だれかを助ける前に、自分を安定させろよ!」
という主張。
「確かに!」と歩きながらつぶやく僕は、大分あやしかったことでしょう。
僕も幼い頃はいっちょ前にヒーローにあこがれました。
単純に「かっこいい!」だけでなく、「困っている人を助けて感謝される」というお決まりの流れに安心感を覚えていたのでしょう。
#今では悪役の大切さも分かる
さらに、心を震わせたのは「主人公が自分の命を顧みず、ヒロインを守るシーン」。
「俺はどうなってもいい。でも、こいつだけは・・・。こいつだけは、助けてやってほしいんだ!!!」
というもの。
涙なしでは見ていられない感動シーンだったのですが、ちょっとひねくれた今となっては、「ほんとかな?」と思ってしまうのです。
もちろん、日常生活の中で悪役に連れ去られ、ヒーローとのにらみ合いを見つめるというシーンにはなかなか遭遇しないでしょう。
しかし、僕たちの価値観の中にひっそりと隠れている「自己犠牲精神の美しさ」というものは、ちょっとばかりやりすぎなような気もするのです。
そんなことを語り出すと、止まらなくなってしまうので、共にサークル内で語り合いましょう。
▼全ては、「利己的な行動」である。
このような話をすると必ずといってよいほど話題となるのは、「親子関係」でしょう。
「親は、子どもを無条件で助けるじゃないか!」
という主張。
確かにその通りなのですが、その「親が子どもを助ける行動」というのも、もっと広い視点で考えると、「利己的な行動」かもしれません。
「子どもがとても傷ついて落ち込んでいる状態では、心配のあまり仕事が手につかなくなってしまうから励ます。」
という考え方は、ちょっとひねくれすぎでしょうか。
この考え方に至ったエイブラハム・リンカーンさんのエピソードを紹介させてください。
リンカーンさんは、
という主張をしていました。
その主張について議論をしながら馬車にのっていると、
「沼地にはまっておぼれかけている子ブタと、その子ブタを助けようと必死になっている親ブタ。」
という、きっと僕は一生遭遇しないであろう光景を目にしたのです。
そんなトラブルを横目にリンカーンさんを乗せた馬車は、先を急ぎました。
しかし、リンカーンさんは、「馬車から飛び降りて沼地まで走って戻り、おぼれかけた子ブタを助けた」というのです。
その「行動」を見た同乗者は、言いました。「今の君の行動も利己的だと言うのかい?」と。すると、リンカーさんは、こう答えました。
と。
#反共感論
もちろん、リンカーンさんのエピソードは、多様な捉え方ができるでしょう。その根拠として、
「人間は、困っている人を助けられる状況にないと助けられない」という実験結果も出ています。
ざっくり紹介すると、
という報告がされています。
ということは、リンカーンさんは「ブタを助けることができる状況にいたからこそブタを助けた」と言えるでしょう。
これらをまとめると、
ということでしょう。
「反共感論」によれば、人間の赤ちゃんでも、チンパンジーでも、「困っている様子を察知して励まそうとする」という能力は、もちあわせているということです。
ぜひとも、その持ち合わせた能力を「発揮すべき時に発揮できる」よう、自分の内面を探ってみてくださいね。
▼まとめ。
本記事では、「『助ける』ということは、そんなに単純じゃない。」という内容をまとめました。
ちなみに、緊急性があることに関しては、「共感力」とか「思いやり」は働きません。
例えば、「おぼれている子ども」を見かけた場合、「共感力」を働かせて「水が冷たそう」とか思いませんよね。
「思いやり」があるから「助ける」という選択肢をとる訳でもありません。
「おぼれている子ども」を目の前にしたときには、単純に「助けなきゃ!」という反応のみで「行動」が喚起されます。
助けた人のインタビューで、「気づいたら体が動いていて・・・。」なんていうのは、真実なのかもしれません。