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人生の連続性への羨望

昔から連続性の無い人生だった

今までの人生でそれなりに打ち込んできたことは恐らくは人並みにはそこそこあると思うけど、
一方でそれを一度辞めればそれがまるで今までの自分の人生とは全くの無関係ですと言わんばかりにそれらと自身の関係を葬り去ってきた。
人間関係に目を向けてみれば、義務教育から大学を出て今の社会人に至るまででも、せっかく築いた関係も信頼も生活が変わるタイミングで殆ど全て断ってしまったきた。
それはSNSにおいても同様で、Twitterやらこのnoteやら様々なSNSについても何度もアカウントを作っては誰かと関係を築いては無きものとして消してきた。
何度も何度も消しては納得のいくものを作りなおそうと一から始めていた。

ずっと昔にどこかで聞いた話、古代中国で皇帝が変わるたびに書物を燃やし尽くしたという逸話(これは今改めて調べてみたけど、どうやら誤りであったらしい)を知ったときにまさに自分の人生だと感じたものだった。
毎回これまで築いたものを全て捨てては一から始めていたのだからそれは成長する訳もない。
私の人生は断絶だらけで連続性がない。

たまにTwitter等で見かける、10年以上同じアカウントでずっと動かしている人や、リアルとネットを区別しないアカウントを動かしている人を見ると心の底から羨ましくなる。
その人にとっては10年間の人生の連続性がそこにある。どういう経験を積んできてどんな体験をしてどういうことをしてどんな変化を経て今に至っているというのを連続性を保って全てOPENにしている。アカウントに記録が残っているとかではなく、その人が自身の人生に連続性をもっていることを恥ずかしげもなくさらけ出しているという状況がとてつもなく羨ましい。
リアルとネットを区別していない人に関してもそうで、一時期の私はTwitterのアカウントを両の手の指で数える程度には持っており律儀に管理していた。
学友との交流垢、学友には教えていないリアル垢、趣味の垢、別の趣味の垢・・・etcといった具合に。本当の自分をさらけ出すのが怖かった、恥ずかしかった。リアルで関わり持つ人に自分はこういう趣向の人間です、趣味で関わりある人に自分はこういう属性の人間です。といったことをさらけ出すのが怖かった。
だからリアルプライベート分けずに自身の全てをさらけ出している人は自分にはとても眩しく見えた。彼らは自身の人生に連続性を持っていた。

果たしてこれから何年生きるのか分からないけれど今後は自分の人生について正直に生きていきたいと思ったからこういう気持ちを書き出してみる

本当は全く違うことを(何度繰り返されたか分かない)最初の記事にしようと思っていたけれど、この考えが浮かんできたのだからしょうがない。
これを最初の記事にする。
こう思うに至った原因は私のこれまでの人生と密接に関わってるのだけど、久しぶりに自分の考えを書くのに疲れたので今日はこれで終わり。
人生の振り返りについてはまた別に書く

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