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BE HERE NOW

2012年の桜の咲く季節に僕の祖父は亡くなりました。最近はこの記憶のためか春は花見というよりも別れの季節だなぁと心にあります。

小さな頃からその背中を追いかけて過ごしていたので、自分の中の大事なものがその根元から消えてしまったような、そういった心地だった。

祖父はその人生の最後の3ヶ月間を自身が興した山里の家で過ごし、余命の宣告を聞いた後の2ヶ月で死後の整理を終えて、残り1ヶ月ほどを穏やかにゆっくりと過ごしました。

僕を含む周囲の家族と言えば、この自体を受け入れることが出来ず、不安に押しつぶされるような心地に取り込まれてしまっていた。いつもは安全運転のおじさんがスピード違反で捕まったり。
何かで気を紛らわせたい。でも、何も手につかない。

その当時に自分が書いた文章を読んでみても、混乱しかなかったけれど、今彼の死後の世界を見渡した時に全てはきちんと機能している。
それは、彼が生前設計した彼の死後の世界は正しい未来の見通しと愛に沿って整えられていたから。

最後の日々の中で、祖父は数時間に1度覚醒しては、様々な事務処理を終えて、少しのご飯や水分を取っていた。

限られた時間、その中で祖父は自身が亡くなった状況に備え、周囲の人が遺産の相続等で喧嘩になるようなことが無いように生前分与などで来た人とへお願いをして行った。

そして、祖父は周囲への配慮を済ませると共にゆっくりと自身のそれまでの記憶を夢の中で駆け回りながら、人生のゴールテープを切ったのだと思います。

数年を経て、祖父の死という体験を思い起こしてみると、それまでの生への感謝、そして死することへの安堵。この2つを手にした時に、今この瞬間はより一層輝きを増すのだと思える。

死を目前とした祖父が目の前で見せた未来を作る姿勢は今もその後の世界を包んでいる。

まだ、僕には少し先の時間ではあるかもしれないけれど、その時が来た際に遅れを取らないように今から個人の意識は持っておきたいと思う。
よりよく生きるためのヒントはすでに備わっている。

奇跡的なつながりの中で両親が実体をこの世に運び出してくれて、周囲の人がその時々の愛を持って支えてくれての今。
その今の中に見える、ありとあらゆるものたちに対して届けるのはこれまでの感謝の念とお礼なのでしょう。 実感は追いつかないけれど。

意識は届きつつある、そんな祖父のいない何度目かの春。

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