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工藤会総裁への死刑判決にモヤるのは当然か

 こんなに喝采を送るべきか、反対すべきかと迷う判決も珍しい。

暴力団「工藤会」トップに死刑判決、法廷で「こんな裁判があるか!」
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4344177.html
指定暴力団のトップに全国初の死刑判決です。北九州市に拠点を置く、特定危険指定暴力団・工藤会のトップら2人が4つの市民殺傷事件に関与したとされる裁判で、福岡地裁は実行犯への指示などを全面的に認めました。

 工藤会がやってきたこと、北九州市の市民の被害、警察、国家の立場を考えれば「死刑も当然だろう」と思うし、むしろスッキリとした気分にもなる(処罰感情で論ずるべきではないと思いつつ)。

 だが、次の瞬間、あくまでこの裁判は形式として「一人の市民が殺された事件で、被告は実行犯ではない」と考えると、死刑判決は重いという考えになる。

 昨日から、この2つの考えの間で揺れ動いている。揺れ動く理由は何個かある。

・そもそもの死刑制度へのスタンスが問われる

・暴力団構成員の人権をどう考えるかというスタンスが問われる

・法の下での平等という「建前」へのスタンスが問われる

 それぞれ、数千字、数万字を要するテーマが詰まっているが、個人的なスタンスをなるべく簡潔に整理したい。

死刑制度へのスタンス

 まず死刑制度に関しては私は「消極的反対派」ともいうべき立場だ。警察、司法の能力を最大限に高く見積もっても人は間違える生き物なので、冤罪がありうる限り、たとえ国家による刑罰であっても、殺人でもある死刑はないほうがいい。しかし、実際の死刑囚の個別の事例を見ると、即座に「こんなヤツは死刑でいい」と思わざるを得ない事件が多すぎる。自分が被害者だったら、被害者家族だったら、と考えると大きな声で「死刑制度反対」とは言えないな、とずっと逡巡し続けている。

暴力団構成員の人権へのスタンス

 こちらもいつもグラグラしてしまう。特に暴排条例と暴力団離脱後5年の縛りについて。「暴力団員になろう、なった、という連中の人権なんて知ったことかよ」という感情と、「憲法を持ち出すまでもなく、出自や経歴によるいかなる差別も許されない」という社会維持のためにも大事な基本原則の尊重という論理が、常に心の中でせめぎ合う。

法の下での平等へのスタンス

 そもそも「死刑判決の相場」という概念がおかしいな、と常に思ってはいるのだが、「永山基準」を持ち出すと実行犯ではなく、今回の裁判で争われた4件で殺害された被害者がお一人という状況では死刑は重い。でも、繰り返すが「量刑の相場」という概念が疑問だ。たとえ被害者が一人でも、死刑になってもいい事件もある。と同時にここで、即座に「消極的死刑反対派」という私の立場が崩れる。

それで、今回の判決をどう捉えるべきか

 ということで、基本的スタンスを整理するだけでもうグラグラで、論理的一貫性も何もなくなってしまう。だが、現状の日本における死刑制度という究極の刑罰を考えるときに、迷いがないほうがおかしいとも思う。

 この手の議論をするときに、やはり日本でも無期懲役のほかに終身刑が必要だと思う。今回の判決は被告が 74歳と考えると、現状は地裁判決とはいえ実質的な終身刑だ。これから、高裁、最高裁と長い裁判が続き、例え死刑が確定しても再審をしている間に死刑は執行されずに終わるだろう。ここでも、「被告の年令によっては、刑が確定していないのに実質終身刑状態」という問題をはらむ。

結論

 結論と書いたが、突飛なことを書く。今まで工藤会がやってきたことを考えると、この判決は実質的に内乱罪の適用ではないかと考えられる。だが、裁判では内乱罪が争われたわけでもないし、ナンバー2の無期懲役を「首謀者」と捉えるか否か、みたいな議論も発生する。そして、そもそもの法制度としてこのような解釈は間違っている。

刑法 (内乱)
第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。(以下略)

 いずれにせよ、「今回の判決、死刑は当然。警察、司法を讃えたい」という称賛の感情と、「いや、理屈で考えるとヤバくないか。日本の刑法がかなり恣意的に運用されてないか、ないしは運用の基準が大きく変わらないか」という危機感が同時に湧き上がる判決だった。

 だが、現状、この判決では警察批判、裁判所批判などは一切したくない。

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