見出し画像

私とモネと、溺れる睡蓮


美術の勉強をしていた、と話すと、9割9分くらいの確率で「どんな絵を描くんですか」と訊かれる。私は、絵を描くのではないんですよ、美術史といって歴史の中で作品を解釈する研究をしていたんです、描くほうはさっぱりわかりません、と説明する。

そこからの会話はだいたい二分化される。作品評価に関心を持つ人と、私個人の好みやおすすめを尋ねる人である。前者は「どういう作品に高値がつくのか」というお金の話をしてくるタイプで、これに関してはむしろ私が教えてほしい。アート市場の本はどうも眠くなっていけない。マーケティングにも関心はあったが、まともに読みきったのは、ジョアン・シェフ・バーンスタインの著書2冊くらいしかないと思う(しかもバーンスタインは「美術」ではなく「芸術」=舞台やオーケストラの売り方の本だ)。

かといって、後者の問いなら答えられるかというと、いつも悩んでしまう。



大まかな区分でいうなら、盛期ルネサンスやバロックの西洋美術が好きだ。ダヴィンチは謎が多くて何度探究してもおもしろいと思うし、彫刻は断然ベルニーニのなまめかしさが好きだし、カラヴァッジョが描く臨場感のある明暗にはぞくぞくする。フェルメールの美しさは語るまでもないだろう。

だけど、ルネサンスやバロックだけが好きなのかと考えれば、初期ルネサンスのフラ・アンジェリコ、印象派のマネやドガにハマっていたこともあるし、モディリアーニ、ムンク、ピカソ、ポロックそれぞれの本ばかり読んでいたこともある。鴨居玲、内藤礼といった日本人の作品はいまでも好きだ。ボルタンスキーの展覧会はよく行く。一方で、研究対象にしていたゴヤは、ただ単純に好みだけの話に矮小化させてしまえば、べつに好きではない、と答える。

聖母マリアとその周辺の表象は、大学時代から全く飽きもせず楽しい。夏目漱石と西洋美術の関係性ならば興味深く、特になんの成果を出すわけでもないまま部屋に研究書を積み上げている。あとは「日本人はなぜ印象派が好きなのか」という関心事には、未だに十分納得できる答えらしきものを見出せていないので、折に触れて考えている。

「どんな画家や作品が好きなんですか?」

うん、難しい問いだ。



まあ、困ったら「モネ」と答えている。クロード・モネならば伝わらないことがあまりないから、という非常に打算的な回答である。

ルノワールと言ってもいいけれど、じゃあルノワールの好きな作品は、と話が続いたときに、まともに答えられる作品がムーラン・ド・ラ・ギャレットしかないので、これは悪手だと思っている。モネなら、睡蓮をはじめ、アルジャントゥイユでもヴェトゥイユでも、ジヴェルニーでもあるいはエトルタでも、なんならサン=ラザール駅だろうがルーアン大聖堂だろうが、レポートを書いた数と作品を観た数だけ、話ができるので。(父と弟は「やっぱりルノワールが一番いい」と言う。なぜか。)

私がモネで一番好きな作品は「ヴェトゥイユの画家の庭」である。これもすんなり言える。

画像1




ただ、私の「モネ」という回答には騙りがある。
理由は、彼の生涯の主題であった睡蓮のせいだ。


香川県の直島というところに、ベネッセグループを母体とする福武財団が運営する美術館がある。地中美術館という。文字どおり地面の中に埋められている。安藤忠雄が手がけた、夏でも冴え冴えと冷たい美術館である。(地中は温度が一定なので、正確には、夏は涼しく冬はあたたかい美術館だと言われている。私は、同種のテーマで三分一博志が建築した犬島精錬所美術館に勤務していたので、半分本当で半分嘘だと思っている。)

地中美術館が「顔」として展示している美術作品は、モネが描いた晩年の「睡蓮」の連作である。フランス・パリのオランジュリー美術館に展示されている、モネの大作である「睡蓮大装飾画」へ通じる作品のうちのひとつだ。そして私とモネの最たる記憶といえば、地中美術館の睡蓮なのだった。


当地へ赴いたのは、25歳の、ちょうど今時期だった。完全予約制で入館に際して人数制限が成されているとはいえ、夏場に行くとけっこう人がいるこの美術館で、その日の私は10分近く、睡蓮の部屋を独占した。運がよかったのか、悪かったのかはわからない。たった1人の監視員を背後に、自然光が降り注ぐホワイトキューブのど真ん中で、私はうねるような睡蓮たちに取り囲まれた。5枚の睡蓮を前に、私は泣いた。感動したのではなかった。

睡蓮が、モネが痛々しかった。


静けさが私を刺す。輪郭の不鮮明な花びらが、涙でさらに溶けてゆく。

こんなに苦しい絵は見たことがなかった。唇を噛みしめながら、死んでも美しいなどと言うものか、と思った。モネの睡蓮に対してこんな感想を抱くのは、世界中でたった私ひとり、叛逆者のごとくひとりぼっちかもしれないと考えたけれど、それでも地中美術館の睡蓮を美しいとは思わなかった。筆がつらそうだと、濁る青さに溺れてゆきそうだと、そんなことばかりが脳裏を駆けめぐった。この睡蓮は、まるで死んでゆくみたいだ――オランジュリーにある睡蓮大装飾画の制作を、モネはいくどとなく諦めようとしたことを思い出した。

その日の直島の天気はやや曇りだったはずだが、部屋は明るかった。安藤の妥協しない建築は隙がなく、計算され尽くしたましろい光が清らかに作品を照らしている。だというのに飾られた睡蓮は重く、暗く、悲しみの底を漂っているかのように、私には見えた。

私はひとりぼっちでそこにいて、モネの睡蓮もまた、ひとりぼっちだった。



情熱に突き動かされていた25歳のときの出来事なので、いまあの睡蓮を目にしても、同じようには感じないのかもしれないし、やはり同じように泣くのかもしれないとも思う。数年後に地元の美術館へやってきたブロックバスターで何枚もの睡蓮を一気に観たけど、多少胸は痛んだが、涙はこみ上げなかった。人びとのざわめきの中で睡蓮が揺れている。薔薇のアーチは美しかった。モネは彼の目に映るフランスの風景を、絶えず波打った人生の中で、最後まで愛していたのだと思った。


「どんな画家や作品が好きなんですか?」

困ったら「モネ」と答えている。クロード・モネならば伝わらないことがあまりないから、という非常に打算的な回答である。

おそらく、相手がモネに抱いているイメージや感情と、私とモネの記憶はまるで異なるものだと予感しながら、私はさも共有しているかのように「モネ」と欺瞞する。ヴェトゥイユの画家の庭が一番好きですね、他にはジヴェルニーの春やエトルタの断崖はとてもきれいで、ああルーアン大聖堂の連作も刻々と遷り変わるさまがいいなと思いますよ。学生のころレポートのテーマにしました。モネで好きな絵はあります? ……モネといえば睡蓮ですしね、睡蓮もいいですよね。


大学3年生の夏に、友人と2人旅をしたプラド美術館はすごくわくわくした。1階(だったと思う)に展示されていたフラ・アンジェリコの受胎告知が本当に美しくて感動したものだ。ベラスケスのラス・メニーナスの前で和田アキ子に遭遇したのも思い出深い、おかげでラス・メニーナスの記憶はさっぱりないのだが。日本の美術館とは比較にならないほど大きく、きっとルーヴルやエルミタージュ、MoMAも楽しいんだろうなと夢に見ている。コロナが落ち着いたら、絶対に海外旅行へ行くのだ。

そんな想像の中で、唯一オランジュリー美術館だけは、心躍らせている自分を思い描けずにいる。いつかオランジュリーで、モネの最期の睡蓮大装飾画に向き合えたとして、と考える。

私はそのあとも軽々に、果たしてモネが好きだと嘯くだろうか。



この記事が参加している募集

#一度は行きたいあの場所

53,559件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?