記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

僕のヒーローアカデミア劇場版で考えた「エンパシーとは何か」

原作・堀越耕平の少年漫画『僕のヒーローアカデミア』の劇場版3作目「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE:ワールド・ヒーローズ・ミッション」を6回観に行ったので感想を書きたいと思う。

あらすじ
世界中の”個性”保持者の殲滅を目論む謎の組織・ヒューマライズ。彼らが各国に仕掛けた、”個性”を暴走させ崩壊に導く爆弾”個性因子誘発爆弾トリガーボム”から人々を救うため、世界選抜ヒーローチームが結成される。エンデヴァー事務所でインターン中のデク・爆豪・轟の3人も、オセオンで作戦に参加するのだが、ある事件に巻き込まれたデクが大量殺人犯として全国指名手配に。デクは警察や謎のヴィランから攻撃を受け、事件をきっかけに出会った運び屋の少年・ロディとともに逃亡を図るのだが、その影では巨大な陰謀が動き始めていて──。
公式サイトのあらすじを一部抜粋・改変。
※ヒロアカにおける"個性"とは生まれ持った異能・異形のこと。


実は、8月6日に公開されてからほぼ2週間置きペースでこの映画を鑑賞していたのだけど、ぼやっと日記に書くだけできちんとまとめていなかった。というのも第一に、私はここ10年ほどの少年漫画に疎いので、感想を述べるのにそもそも若干及び腰なところがある。第二に、この原作漫画はMCUにたぶんめちゃくちゃ影響を受けているのだが、私はスパイダーマンすらまともに観たことがないので、この作品が描出したいヒーロー像について何ら言説を持たず「面白かった~」以上のことを語れる自信がなかったためである。

だけど、公開初日の初回に足を運んだのは初めてだったし、同じ映画を映画館で6回も観たこともなかったので、記録しておかないともったいないような気持ちになったから書くことにした。公開から3ヶ月経っているので殆どの劇場では上映終了していると思うけど、2月にBlu-ray&DVDが出るそうなので気になったら観てほしい。予約したいけど特典をどれにするかでまだ決めかねている……やっぱりTOHO animationかな……


ところで、常々「感想は色々あっていい」と喧伝しているものの、私もやはり、私の中に知識の蓄積がないに等しいものやファン層の分厚い作品について語るのは、ドキドキするので、自分の感想にこだわりのある人はここで読むのをやめてほしい。けんかしたくて書いているのではないので。好きだから書くよ。ネタバレもあるよ。

ここで注意していただきたいのは、深く考えないで作品を見て楽しむというのも十分価値ある体験で、深く考えた批評を行うという体験と優劣はつけられない、ということです。楽しみ方はひとつではないので、なんにも考えずに頭をからっぽにして楽しみたいという時もあれば、よくわからないものを深く掘り下げたいという時もあると思いますし、この楽しみの体験はどちらも素晴らしいものです。(中略)楽しみ方は人それぞれであるということを尊重しましょう。ただし、「批評なんてせずに何も考えずに見ればいいじゃないか」と言われた時には「批評をして掘り下げたほうが私は楽しいんです」と反論しましょう。
- 北村紗衣(2021)『批評の教室 ──チョウのように読み、ハチのように書く』pp.14-15


クリアファイルついでにムビチケが3枚

画像1

そもそもどうして6回も観に行くことになったのかというと、無職4ヶ月目で暇を持てあましていた6月某日、余裕で前売りのムビチケを買いに行けてしまったことに端を発している。特典のクリアファイルが3種類あって、本当は爆豪勝己分だけ手に入ればそれでよかったのだけども、3枚繋がっているんですよー! 三幅対なんですよー! とか言われると収集癖著しいおたくは勢いのまま買ってしまうわけで、クリアファイルついでにムビチケが3枚手許に来たという理由なのである。最初からめちゃくちゃ観よう! 観倒そう! と思っていたのではなく、まあ、要は、単なる暇人ゆえの突発的な行動でこうなったのだった。

私は基本的に、映画は比較的静かなものしか観ない。元々その手の映画が好きだったこともあるし、メニエール病を患ってからは爆音と点滅が天敵と化したので、映画館だろうが自宅だろうがその傾向に拍車が掛かった(好きな映画を訊かれたら「ショート・ターム」だとか「SOMEWHERE」だとか「マイ・マザー」だとかを必ず答える)。映像的に(音声的に)騒々しい展開の映画は、精々、春に劇場版名探偵コナンを観に行くくらいで、それ以外だと映画館で観たのは「パイレーツ・オブ・カリビアン:最後の海賊」(2017年)が恐らく最後だと思う。ジェフリー・ラッシュ演じるヘクター・バルボッサが好きすぎてどうしても映画館で観たくて、何かあったときのために弟を引きずって観に行ったのだった。コナンは展開に想像がつくので病気の症状に対応しやすいのだけど、他はそういうわけにもいかないので、映画館で騒々しい映画を観るのは大変なのである。

ていうので、ムビチケが3枚あったとはいえ、身体的に煩わしいものがある私が6回も観に行ったのはわりと異常だと自分で思っていて、さてどれほどの魅力がワールド・ヒーローズ・ミッション(以下WHM)にあったのかという話なのだけれども。


吉沢亮、声優うっっっっっっっっま。

WHMの最大の魅力の一つは、やはりこれである。俳優の吉沢亮が、オリジナルキャラクターのロディ・ソウルを演じているのだけど、ゲスト声優とは思えないくらいクオリティが高い。コナン劇場版「緋色の弾丸」において浜辺美波が石岡エリーという役を担当していて、この春に、美波ちゃんうまいじゃーん! とか思っていたのがすごく遠い昔の話に思えた。いや毎度、コナン劇場版のゲスト声優が下手すぎるだけのような気がしなくもないのだけど(あまりに下手やけん、群青の拳のときは私の梶裕貴が声優しているだけで冒頭数分で犯人わかっちまっただろーがよ)、吉沢亮はロディ・ソウルだったしロディ・ソウルは吉沢亮で、堀越先生がTwitterで「ロディ沢亮」なんて書くから、そう、ロディ沢亮なんですよ彼は……!!! みたいなわけわからん感想を鑑賞後に必ず、頭抱えて唸っていました私。

そりゃあ、6回も通ってよくよく聴き比べると、さすがにデク役の山下くんも爆豪役の信くんも轟役の梶くんも、引っ張りだこの人気声優だけあって、細かい表現がゲスト声優とは別物なのがわかるのだけども、物語に没入している限りは全然気にならないくらい吉沢亮が上手い。吉沢亮のロディ・ソウルが最高というだけでも観る価値がある映画、それがWHM。元々吉沢亮がヒロアカファンだというのを知っていたので、初回を見終わった後は、吉沢亮による吉沢亮のための吉沢亮のヒロアカ劇場版……!!!!! とさえ言っていた。あまり間違っていないと思っている。舞台挨拶のときの吉沢亮くんめちゃくちゃ楽しそうだったからいいのだ。全て許される。


で、そのロディ・ソウルがよいのだ

ロディは、デクたちが派遣されたオセオンという国で、弟妹と貧しい暮らしをしている少年である。父親が蒸発し周囲から疎外されたことで社会を醒めた目で見ているし、冒頭ではヴィランによって盗まれた宝石を運ぶ仕事(犯罪)を請け負い、デクとの邂逅でもシニカルな態度を崩さない。日々の生活を営むことで手一杯だった彼は、事件に巻き込まれてデクと一緒に逃亡せざるを得なくなる。そして、強制的にもたらされた逃亡生活という非日常の中、ヒーローを志すデクとの交流を通して「自分がなりたい自分になる」「欲しいものを諦める必要はない」ことを徐々に考え始めるのだけど、その変遷が私はすごく好きだった。

例えば、私の好きな映画「SOMEWHERE」は、派手で空虚な生活を送るハリウッドスターのジョニー・マルコが、娘のクレオとの数日を通して、いつしか自分が見失っていたものを静かに取り戻してゆく話である。ヒロアカ自体は少年漫画原作のヒーローアニメではあるものの、(ものすごく単純化してしまえば)憧れの人物や仲間と共闘して強敵を倒すことだけが主眼の劇場版前2作とは趣が異なって、WHMは、非日常の中で誰かとの交流を通じて自己を見つめ直すこういう映画(逃避行、ロードムービー)と親和性の高い話だった。

アニメにも色々あるので一概には言えないけれども、おおよそ展開に勢いが必要なこの手のアニメだと、情緒へフォーカスした描写に画面・時間が割かれることは少ないので、ロディの機微はかなり丁寧に追ってあったと思う。心理変化のそのニュアンスや淡い移ろいを人の仕草で表現するのはどうしても実写が強いし、これについてアニメーションで期待することって私はあまりないのだけど、ロディは本当にここがよかったし、吉沢亮の呼吸がとても上手かった。演じる上で身体イメージの強い俳優さんだから為せる技だったのかもしれない。

また、その、ロディの情緒を細かい動作(実写なら、視線や瞬き、息遣い、手脚の事細かな動きで表すようなもの)で表現しづらいところをカバーしていたのがロディの本音が具現化した個性”ピノ”であり、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの挿入歌だったなあと思う。

初登場シーンでつまらなさそうに(あるいは自分には関係のないものとして)スラムの狭い空を横切っていく飛行機を見上げていたロディが、デクたちを見送ったあとに同じ場所で飛行機を仰いで、明るく、活力のある目をするところが私は本当に好きで、結局6回全部ここで泣いた。なんなら今この感想を書きながらも涙ぐんでいる。いい。マジで。ロディ好き。


敵との言語コミュニケーション

WHMが劇場版の前2作と全く異なるのは、3分の2くらいはロディ目線で話が進むところで、ゆえに、ヒーローについても「”デクから見た”ヒーロー」とか「”デクが考える”ヒーロー」といった描写ではなく「"デクは"ヒーロー」という視点に立っている。正確にはヒーロー仮免許のインターン生なわけだけれども、一般人のロディから見れば、プロヒーローと同一なのである。なので、デクが何についてどう考えているのか、彼の口から直接的に語られる場面はあまりなかった。

興味深かったのは、映画におけるラスボスのフレクト・ターンの心情を、デクが言語化するシーンである。決してフレクトのありようを肯定したのではないが、一方的に倒しても何ら差し障りのない場面で、彼はヴィランと言語コミュニケーションを図っている。少女漫画だと、最終決戦で敵の心情を斟酌する展開はありがちだが(性善説に拠って立ち、悪役の心を理解し融和を目指す=どんなものでも受け入れる、人間としての器が大きいヒロインのステレオタイプなのだと思うが、敵のケアまで求められる女って何なのだろうと考えることはある。たまには一撃で倒していい)、少年漫画だとわりと一方的に倒して終わりな印象が強かったので、デクがフレクトと対峙し、言葉によって彼を解釈しようとするのは個人的に面白かった。実際、劇場版1作目「2人の英雄」も、2作目「ヒーローズ:ライジング」も、デクにとってヴィランヴィランでしかなかったと思う(「何が目的なのか」と問いはするけれど)。

で、最近ようやく鬼滅の刃を観たら、竈門炭治郎も鬼に問い、鬼を憐れむので、少年漫画も一方的に倒す時代は疾うに終わっているのかもしれない。ただし、鬼は会話にならないので、結局倒さざるを得ない(※原作未読)。他方、ヒロアカのヴィランはコインの表と裏のよう、ヒーロー社会の負の面として描かれる「善を選べなかった」人間なので、言語コミュニケーションが成立するのだ。

これは映画に限った感想ではなく原作やアニメを通して日頃考えている戯言なのだけれど──"個性"が人の性質ではなく能力・異形として既に表出している世界で、さらに誰しもが似た姿形をしているわけではないのに、「みんな”同じ人間”だ」と納得するには、どうしたらいいのだろうか。WHMにおけるデクとフレクトのやりとりを観ながら、私は、どんなに果てなくうんざりするような言い合いになっても、倦まず投げ出さず、対話するしかないのではないかと思ったのである。

ヒロアカでは、物語の序盤から「ヒーローとは不自由だ。敵を捕まえる以外の選択肢がないのだから」とヴィランによく皮肉られる。これは全く公式の見解ではなく私見だと前置きしつつ──理想の包摂的な社会がどのような"個性"の人間でも生存が保障される社会だとしたら、害意を持って他者を毀損した時点でたとえ人道的に悪であるとしても、それでもなお、法の下で、彼らの事情の幾許かは酌量され、人としての尊厳(人権)だけは守られるべきだということになる。だからこそ、物理的に圧倒的なパワーを持つヒーローは、彼らを裁く権利を持たない。正義を私怨と混同してはならないし、力によって他者を弾圧することは悪だからだ。例え悪人だろうと一人の弾圧が許されれば、ルールは拡張され、社会に対して武力の行使が許容されてしまう。

私は、今作はこのフレクトとの対話こそ「デク」というヒーローの──というよりヒーローがヒーローたるべき社会の──本質が最も垣間見えているように思えて、前2作とは違う面白さがあった。

毎週本誌を読んでいるので、いま現在この解釈に不一致があるのは承知しているよ。でも映画を観た時点ではこう思ったんだよね。


エンパシーとは何か

「ええっ。いきなり『エンパシーとは何か』とか言われても俺はわからねえぞ。それ、めっちゃディープっていうか、難しくね? で、お前、何て答えを書いたんだ?」
- ブレイディみかこ(2019)『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』p.92


ロディとフレクト、劇場版オリジナルキャラクターとの邂逅は、それが味方であれ敵であれ「相手が何を考えているのか」を問うものだった。アジカンの後藤正文がWHM主題歌として「エンパシー」を選んだことは、私にはすごくしっくりと来た。デクたちを乗せ、旅立っていく飛行機を見送ったロディが冒頭と同じく仕事をもらいに行き、そこで”まっとうなやつ”と付け加えるのだが、その後にこの曲が流れるのに毎回グッと来てしまうのだ。

生まれた場所に基づく風景を
虹彩や皮膚に紐付けた運命を
打ち消して
ただ認め合うような将来を夢見て
夢見て
ASIAN KUNG-FU GENERATION/エンパシー

後藤ことGotchの思慮深さは私が語るまでもない。音楽を通してだけではなく彼が発信するSNSやコラムなどから、彼がいかに繊細に、慎重に、言葉を選びながら世界の出来事を捉えようとしているかはよくわかるし、それが彼の専門である音楽へ落とし込まれたとき、こういうふうに熟するのだと震えるような1曲が、WHMに添えられていたのは、本当にすごくよかった。語彙が見当たらない、すごくよかったのだ。BONDS大正解。

Gotchが「夢見て、夢見て」と繰り返すフレーズは誰の主観だろう。父親の失踪から迫害を受けてきたロディかもしれないし、本人曰く"全てを反射する"個性ゆえに誰とも自分を分かち合えなかったフレクトかもしれないし、あるいは、本来は”無個性”でヒーローになりたい夢なんて叶えるも何も、スタートラインすら立てなかったデクのことかもしれない。そして、この物語が暗喩する、現実世界を生きる私たちなのかもしれない。毎日、あまりにも多くの場所で、当たり前のように差別が繰り返されている。小さいものから大きなもの。あからさまに見えるものから視界に入れないようにしているものまで。映画の終わりで主題歌へ至るたび、そのことを考えた。Gotchは「煎じ詰めればエンパシーで」と歌う。

ときに厳しい風に吹かれても
君がひとりこぼした涙でも
きっと憐れみも悲しみも
煎じ詰めればエンパシーで
僕らの魂の在処かも
ほら


デクが自己憐憫を吐露するフレクトに叫ぶ台詞が印象的だった──「おまえは諦めたんだ、諦めなければ触れあえたかもしれないのに!」。私はこの頃とみに、混沌とした社会や、生まれついての不遇に身を窶す中で「諦めない」というのは本当にとても難しい行為だと思うのだけれど、それでも、憐れみや悲しみも綯い交ぜて全て、私たちは分かり合おうとすることを諦めるべきではないのだ、と映画を観る都度考えさせられた。

少し話を遡ると、中盤、ヴィランから隠れた洞窟の中でデクとロディが初めてきちんと膝を突き合わせるシーンがある。一心にプロヒーローを目指すデクと犯罪に手を染めながらやっと生活している自分の境遇を比較してロディが自嘲し、それにデクが反応しようとすると「何も言うなよ。同情なんかされたくねえ」と制する場面だ。同情は、エンパシーではなくシンパシーだろう。対して、フレクトのエゴに対するデクの叫びは「こいつの思想には同意できないけれどもその苦しみは理解しようとする」エンパシーである。デクは元々他者の気持ちを想像する能力が非常に高いキャラクターで、上手く活かした表現だと思う。これらはラストシーンで、すぐには劇的に変化しない環境でまずは自らが変わろうとする「できれば、まっとうなやつで」というロディの台詞に収斂されてゆき、アジカンの「エンパシー」が大きな意味を持つのだ。


ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に登場する冒頭の質問への答えは、こうだ。

「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
-ブレイディ(2009)p.29

ロディでもいいしフレクトでもいいしデクでもいい。映画を観て、誰かの立場を自分事として考えてみる。これもまたエンパシーの練習にはならないだろうか。アニメーションだから取っつきやすいしね。

 つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力しなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。
-ブレイディ(2009)p.95


難しいことは抜きにしても

最初に言及したように、私はWHMについてあまり積極的に感想を書くつもりがなかったので、面白かった~!!!!! と最後に叫んでおきたい。大体は、爆豪勝己の肉体美と戦闘の美しさを堪能するための映画だと思っているし、梶裕貴マジで声がよい、よいわあ、と耳が大満足である。とにかくかっちゃん、ろき(私は轟焦凍をいつもこう呼んでいる)が何か言うと「命令すんな」になるのにデッくんに言われると「わーってる」って以心伝心になっちゃう、幼馴染みマジでなんなの……??? と頭を抱えるのも楽しかった。今もまだ頭を抱えている。20年近くotakuとして生きてきて腐ったことだけはほぼないのだけど、出勝の沼めっちゃ怖い。怖。足が抜けない。あと、ろきの顔面ズームイン多すぎない? 顔良~~~~~。映画冒頭のキャラクター紹介も、バチクソカッコよくて大好き! インターン中だからA組の絡みが少なかったの寂しいけど、みんな心が繋がってるの熱いな! A組が好き! 大好きなでんぴっぴもっと観たかった!

なお、かっちゃんの筋肉美は梶裕貴も推しているので。

事前生配信面白すぎて爆笑した。今観ても面白い。エンデヴァー!しか言ってないやんけ。


(追記)

一眠りして読み返し、ロディはヒーローなんだよな、というくだりを入れるの忘れてしまった ヒロアカの世界でヒーローは職業なわけだけど、職業としてではなく、誰かの苦労を分かち合おうと努められる人間はみんなヒーローになれるし、それはロディを通して描きたかったことの一つだと思うんだ。

2021.11.21


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?