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優しい人ってどんな人



 優しい人、と評価されるのが、私は苦手だ。

 三連休、先週末の持病の発作で体調がぐずついていたのと、それにより自律神経が落ち着かないのとがあって夜中眠れず、深夜テンションでうっかり有料(高額)の占いを申し込んでしまった。で、先般、鑑定結果をいただいたのだが、まあ――「うん、こんなものだよね」という感じだった。
 本名不要で、生年月日と血液型を記載してもらえれば霊視します、という占いだったので(なぜそれを選んだのかは私にもよくわからない)、大体、星座占いと血液型占いの掛け合わせのような鑑定結果だった。私は、占いは好きだけど、一時期、小野不由美のゴーストハントシリーズにハマりすぎてこの手の調べものをしていたせいもあり、信心深さというのをそのへんに置いてきてしまったので、そっかあ、みたいな気持ちだった。閑話休題。

 鑑定結果の一行目に「あなたは優しい人ですね」と書いてあった。
 丁寧に書かれた鑑定結果を素直に受け取れなかったのも、そもそも私が、この「優しい」という評価が苦手なせいもあったのだろう。

 さて、この人は、何をもって私を「優しい」と形容しているのか。



 今でこそ多少冷静さを身に付けつつあるものの、生来の私の性格は非常に苛烈で暴力的であるし、感情の起伏も明らかに激しい。好悪がはっきりしていて、物怖じせず、相手が誰であろうと自身の考えを主張するし、考え方を違えているものには真っ向から反論する。大学の頃までは、私のことを「優しい」と評価する人はなべて病院へ行くべきだ、と本気で思っていた。
 天地がひっくり返っても、私は優しくはない。
 「優しい」という言葉が内包するふわふわしたものとはほど遠いと思う。

 そうだ。
 私は、優しい、という言葉を、ふわふわしていると感じているのだ。
 具体性がなく正体が見えない感じがして、落ち着かない。私のどこを観察して「優しい」という単語を当てはめているのか、さっぱりわからないことに、むずがゆい居心地の悪さを感じる。「優しい」の基準はその評価を用いる人の価値観に依拠していて、不安定で、どことなく心許ない気がする。
 少し嫌な言い方をするなら「その人にとって都合がよい」みたいな響き。

 まあ、そんなことを言ったら「厳しい」とか「冷たい」とかいう形容も、評価者の価値観に拠るものでしかないのだけど。

 でも、なんだろう。「優しい人」と言われると、そのふわふわとした期待を裏切ってはいけないような気がして、顔にはいつも笑みを貼りつけていなければならないような、奇妙なプレッシャーがある。それが苦手だ。私はきっとかならず、期待を裏切るから。都合のいい生き物にはなれない。



 かといって私も、他者を「優しい」と評価する場面は多々あって、自分に向けられる「優しい」という言葉と、私が他者に向ける「優しい」という言葉を、どのように捉え分けているのか訊ねられると難しいのだけど。改めて考えてみると――私と違って人を傷つけるようなことをしない、という意味で、他者について「優しい」と言っているかもしれない。私が他者に向ける「優しい」という評価には、私と比較して、という枕詞がひっそりと添えられている。つまり、私の基準と価値観に依拠している。

 私はやっぱり苦手だなと思う。「優しい人」という評価。
 雲を掴むみたいにふわふわしていて、頼りない。



追記:
 私は「優しい人」という人格に対する評価が苦手なだけで、行為に対して「優しい」と評価をするのには、特に抵抗はないのだよなあと書いたあとに思った。「困っている人がいてそれを手伝ったところ、優しくしてくれてありがとうと言われた」というのは、行動があって、それを受け取ってくれた人がいて、その行為に対して評価がなされただけなので、そこで「いやいや私は優しくないですから」などと意地を張ることはない。
 つまり問題は、「優しい」という形容が何に掛かっているのか? という点のような気がする。「優しい」と評価されうるに足る行動の積み重ねによって「優しい人」と認知されているのならいいけれど、そのような蓄積のないまま「優しい人」という人格への評価がなされるのには違和感を覚えているのかもしれない。蛇足。




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