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春について

桜の季節が、静かに終わろうとしている。昨日の雨で散ってしまった花弁たちが地面を薄紅色に染めている。数日前には綿菓子みたいに咲き誇っていたのに。通勤の道すがら車窓からみえる桜並木は、あっという間に葉桜に向かいつつあった。


満開の桜を見ると、泣きそうな気持ちになるようになったのは、いつからだろうか。大人になって桜を楽しむ情緒が身についてきたとも言えるかもしれないが、情緒というよりも、「桜が散ったら大好きな春が終わってしまう」とか、「あの人と一緒に桜を見たかったなぁ」とか、そういう子供っぽい感情によるものだと思う。

今年は一度だけ友人と桜を撮りにでかけた。愛車をオープンにして。すこし肌寒い日だったけれど、春のにおいのする風を存分に浴びたので、今年の桜はあまり泣きたくならなかった。ただ、叶うことなら、1年のうちに半年くらいは満開であって欲しい。そうしたら、束の間の満開にかこつけてあの人を花見に誘うこともなくて済む。無駄に誘って、断られて傷つくことも無いのだ。



花のひとつひとつは楚々として咲く可憐な桜ではあるが、満開になるとどうあがいても「ここに咲いていますよ」と自ら主張しているかのように豪華絢爛咲き誇るという風情の、ソメイヨシノ達が、とても好きだ。

愛でられるために咲く薄紅色、思わずその下で宴を開きたくなるような包容力をもった木々。その実、手折られたところから腐ってしまうほど繊細で、人の手を借りないと子孫を残せないか弱さ。守らなきゃ、と思わせる儚さ。そのどれもに、いつの間にか自分の理想を重ねているような気がする。

弱さと表裏一体のしたたかさ、とても強い木にみえても、風雨に耐え、たくさんの傷と共に生きているのだ。



冬の終わりからこっち、感傷的になる機会が多かった私にとっては、今年の桜はとても眩しかった。儚さを内包した生命力の息吹を存分に感じて心の換気になったし、少しずつ大きくなっていた胸の穴も、風に乗って舞う花弁達にすこし埋めて貰えた。宴も、団子もなくとも、桜を愛でに出向く意味はそこにあった。

桜の花に自分を重ねて、なんてなんともナルシストにも思えるが、それもいいかとも思う。心の中に少しはロマンチシズムやナルシシズムを住まわしておかないと、自分を自分で殺しかねない。この春の感傷はそれほどに私の心を蝕んでいることに、ここ数日、やっと気づいた。どうにもこうにも、沈んで顔をあげられないのだ。そのくせ表面では取り繕えてしまうのが厄介だった。ひとりぼっちの時にしか暴れない感傷のせいで、止まることが許されない。


冬の終わりとともに、春が感傷を連れてやって来た。桜も、生ぬるい風も、実は優しくはなかった。


春の夜は孤独だ。春夏秋冬すべてのなかで、春がいちばん孤独。とりわけ夜はどっぷり沈みこんでしまう。今日は特別そうで、ふと、「さよならだけが人生だ」なんて言葉が浮かんだ。

人生にさよならはつきものだと思う。別れなんて何度でもあった。きっと一生付き合っていくんだろうな、なんて思っていた腐れ縁の人でも、いつの間にか会わなくなって、さよならになってしまったこともあった。

桜の花が咲き続けることがないように、ずっと続くものなんて、きっとない。わかっていることだ。私は、さよならって言葉が嫌いだ。この先二度と発したくないくらい、大嫌い。


ほら。こんなふうに感傷に浸ってしまう夜が、この春何度もあった。ぶつける先もなく胸の中でとぐろを巻くように居座り続けるそれは、もはや自分ではどうしようもないくらいに、心にのしかかっている。

春が厄介なものを連れてきた。ならば春が終われば、少しはマシになっているかもしれない、なんて根拠の無いことを考えている。そうでもしなければ、やっていけない気がする。