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11話 栄光と挫折

4年生になった。

4月には大阪の国公立大学の対校戦がある。

もちろん、いずれも陸上の強豪校ではないので、自分の勝利を信じて疑っていなかった。

正直15mちょっと跳べば勝てて、対校得点に貢献できると思っていたが、優勝したのは今井だった。

彼は昨年の10月からすでに50cm以上記録を伸ばしていた。

のちのちの話にはなるが、この年の西日本インカレで優勝し、全カレに出場するレベルになっていた。


シンジや今井といった素晴らしいライバルや大学のチームメイトに恵まれ、充実した日々を過ごしていた。


僕が所属する大阪大学は、前年に関西インカレの1部昇格を果たしていた。

記憶する限り、近年で阪大が1部残留したことはなかった。

陸上の対校戦は、1位:8点、2位:7点…8位:1点といった具合に順位に応じて対校得点が加算され、大学ごとの合計点で順位が決まる方式になっている。

また、順位以外にも大会新記録(5点)などの記録ボーナスも設定されていた。


阪大が1部残留するためには、三段跳で確実に点数を獲得することが必須条件だった。


実は、この年のシーズンインはうまく波に乗れず、関西インカレの時点でのシーズンベストは15m50に留まっていた。

不安と、やらなくてはいけない使命感の両方を抱えていた。


迎えた関西インカレ1部三段跳決勝。

問題なくベストエイトに進出し、勝負はラスト3本にかかっていた。

シンジは怪我、今井は2部だったので、戦うぺき相手は自分自身だった。

5本目に15m89と大会記録を上回る記録を出すも、惜しくも追い風参考。


6本目を迎え、ピットに立つと、スタンドからチームメイトの声。

「花谷さん一本!」

叫ぶ後輩の声をきっかけに、ゾーンに入った。

風を慎重に見極め、止んだ瞬間にスタートを切った。


その跳躍は全く記憶にない。

着地した瞬間に大ジャンプを確信した。

16m19。

大会記録を30cm以上更新し、8点の順位点と大会記録ボーナス5点を獲得した。


当時のことは記事になった。

タイトルには『花谷、残留に望みつなぐ大会新』とあった。


その後、リレーでの決勝進出や10000mでの先輩の激走などで得点を積み、なんとか1部残留を果たした。

そしてこの大会、昨年に続き今度は1部での大会最優秀選手に選ばれた。




6月になり、2度目の日本選手権を迎える。

昨年8位と同記録ながらセカンド記録で敗れ、9位に終わっていた。

2009年の日本選手権は広島開催だった。


3本目を迎えた時点で、僕はベストエイト圏外だった。

8位の記録は15m74。

条件も良く、前年よりもレベルが高かった。

3本目の跳躍。

ファールする覚悟で突っ込んだ。

着地の瞬間に「1cmでも前へ」と思いながら脚を伸ばしたのを記憶している。


記録は、15m74。

ドキッとした。

また去年と同じじゃないか。


順位とナンバーが掲示板に表示される。

8位。

なんとこの年は同記録ながらセカンド差で勝り、ギリギリベストエイトに滑り込んだ。

その後、6本目には16mを越えるも惜しくもファール。

記録を伸ばせず、2度目の日本選手権は、ギリギリ8位入賞という結果に終わった。

1年前に痛感した1cmの重みをまた、違う形で感じた大会となった。




そして時は全日本インカレ。

大会前ランキングは1位を飾った。

阪大から複数名出場していたこともあり、大阪から数十名のチームメイトが応援に駆けつけていた。


この時は、感じる必要の無いプレッシャーを、勝手に感じていたんだなと今になってみれば思う。

体が、重かった。


思うように記録を残せず、後が無くなった3本目。

前年の全カレや日本選手権の時もそうだったように、いつもならここで記録を伸ばしてきた。

しかし小さな事で躓く。

助走のスタート位置がちょうど、逆側の砂場にさしかかるところだった。

旧国立の砂場の枠は、プラスチックなのかとにかく硬い素材でできていて、スパイクで踏むのを避けて助走のスタートを切った。

当時はローリングスタートだったので、距離感が少しだけ狂ってしまった。

そんな些細な事が助走のスタートを狂わせ、焦りから力みを生んだ。

何故やり直す事をしなかったのだろうかと思う。

動きに精細を欠き、記録は15m52。

9位だった。


2年連続、大舞台で再びこの順位。

この時ばかりはチームメイトに顔向け出来ず、自分自身を責めた。

20年の競技人生を振り返って、最も悔いの残る試合となった。



こうして大学4年生の大舞台は幕を閉じた。

陸上競技を思う存分楽しんだ大学生活も終わり、仕事中心の社会人生活が、始まろうとしていた。

サポートいただけたら嬉しくて三歩跳びます。