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10話 躓きと導き

一気に76cm自己記録を更新した僕は、6月下旬の日本選手権展望に名を連ねた。

この舞台に初めて立つにも関わらず、いきなり注目選手の一人として数えられたことが嬉しかった。


日本選手権は川崎の等々力での開催だった。

その日は雨が降っていた。

雨天練習場で世界の室伏選手を見て、すごい場所に来たのを実感した。


当時高校記録を保持しその後も記録を伸ばし続けた渡邉容史さんや17mジャンパーの杉林孝法さんなど、往年の名選手も同じピットに立っていた。

15m後半の記録を跳べばベストエイトに残るだろうと踏んでいた。



しかし記録は伸びず、15m48だった。

3本目終了時はギリギリ8位につけていた。

雨で他の選手の記録も低調で、もしかしたらと祈るように他の選手の3本目が終わるのを待つ。


が、甘くはなかった。

終わってみれば7位が15m49、8位が15m48、そして僕も15m48だったが2番目の記録で負けていて、9位だった。

日本選手権の洗礼を受けたような気分だった。

あと1人。あと1cm。

改めて勝負の厳しさを知った。



翌月、地元京都で西日本インカレがあった。

この日は助走スピードが出ていたのを覚えている。

かえってそれが事故を招いたのだろう。

コントロールを失ったステップで上半身が前に突っ込み、ジャンプ時に大ブレーキをかけてしまう。

あまりの激痛で脚が痙攣した。

左足首の靭帯損傷と踵の脂肪組織の損傷で、松葉杖をつくことになってしまった。



9月の全日本インカレまで2ヶ月。

絶望的に思えた。



しかし僕は知っていた。

やれる事を、やるしかないのだ。

イメージをとにかく脳に刷り込む。

怪我の回復に良いと思う方法をたくさん試した。

バイト代を鍼治療や酸素カプセルに費やし、血行促進させて組織の回復を図るため体を冷やす作用のある食べ物や飲み物を避けた。


そして一度も跳躍練習をしないまま、全日本インカレを迎える。

実はこの年、年間を通して跳躍練習をしたのはたったの2回だった。


1年前、1本目から16mを跳んだ十亀さんを始め、有力選手が揃っていたが、もう何も思わなくなっていた。

競技が始まった。

ポケットティッシュ丸々1個分を左足のスパイクの踵に敷き詰め、恐る恐る跳んだ。

踵に若干の痛みはあったものの、想定内の状態であることが確認できて、いけると思った。


2本目までを動きの修正に費やし、残すところあと1本となったところでベストエイト圏外だった。

シンジとハイタッチを交わし、お互いのベストエイト進出に向けエールを交換した。


3本目は、ジャンプまで綺麗に繋がり、着地も真っ直ぐ抜けた。

15m88。

3位につける記録でベストエイト進出を決めた。

そしてシンジも同じく、3本目に記録を伸ばしベストエイトに残った。

これで全日本インカレ2人で初入賞が決まった。


3位のまま6本目に入っていた。

このまま表彰台確定かと思われた時、全くノーマークだった選手に逆転を許した。

沖縄でお世話になった大学の選手が、最終学年の意地を見せ自己ベストを跳んだ。

目の前で抜かれた僕は力みが出てしまい、最終跳躍で再逆転できなかった。


結局そのまま4位だったが、松葉杖状態から2ヶ月間、やれる事をやり切った思いから清々しさを感じた。

また、上位3人は最終学年で、来年はいない。

自ずと目標は来年の全カレ優勝に決まっていた。



転機の沖縄合宿、肉離れ、破竹の自己ベスト更新、関西学生新記録、全国優勝、セカンド記録での日本選手権エイト落ち、松葉杖、復活の全カレ入賞。

怒涛のシーズンはこれだけでは終わらなかった。



10月、関西地区の学年別の大会。

2年前に全カレ標準を跳んだ大会である。

僕とシンジは関西で初めての16mジャンパーコンビとして注目されていた。

ウォーミングアップを済ませ、招集場所に向かう。


今思えば、慢心以外の何物でもない。

競技者として一番やってはいけない事、コール漏れをしてしまったのだ。

そして何故か、シンジも同じようにコール漏れを犯していた。

別々に行動していながら、同じ日に初めてのコール漏れ。

勝って兜の緖を締めよ。

2人の油断が生んだ失敗だった。


僕たちは、それぞれの大学の陣地に居ることもできず、2人揃ってただ試合を観ることしかできなかった。

その日、優勝したのは高校のチームメイトだったロクだった。

その中で、もう1人目を引く選手がいた。

記録は14m70くらいではあったものの、長いアキレス腱に軽やかな動き。

大阪の公立大学の選手で、今井という選手だった。

絶対に強くなると思った。


試合後、当時盛んだったmixiを使って、今井にコンタクトを取った。



幽霊部員だった今井は、前年の大阪世界陸上の補助員をキッカケに陸上に戻ったとその後に知った。

ここから彼は急成長していくのだった。



跳躍ピットを外から眺めたことで、気づけた存在だったのかもしれない。

新たなライバルであり同志との出会いだった。

サポートいただけたら嬉しくて三歩跳びます。