7話 高校最後の夏
診察室に医者が来るのを待ってる間、机に貼り出されたレントゲン写真を見れば、素人の僕にも何が起きているのか理解できた。
背骨に明らかな、亀裂らしき影。
医者がやってきて、言った。
「腰椎分離症ですね。」
それがどんなものなのか、治るのか治らないのか、聞く前に僕は泣いていた。
事実、靴下を履くこともままならないほどの腰の激痛で日常生活にも支障をきたしていたし、何か重大な事が起きているんだろうなと思っていた。
その想像を、はっきりとした形で言い渡されて、受け止めきれなかった。
絶望的な気分だった。
思えば去年の国体、さらにはもっと前から腰の違和感はあったのだ。
今では、体の声を聞けなかった未熟さに後悔している。
それからの日々は、地獄だった。
座っていても、立っていても、歩いていても、激痛。
走って、ましてや体重の10倍の負荷を受け止めて跳ぶなんて、想像できなかった。
それでも時間は過ぎ、シーズンは向こうからやってくる。
ありとあらゆる手を尽くして、迎えた春季大会。
結果は14m28。
しかしファールでベスト近い跳躍があり、少し光が見えた。
試合後は、恐ろしい激痛だった。
腰の痛みには波があった。
5月の市総体は比較的状態がよかった。
下手な跳躍をすればかえって腰に負担がかかるため、上手く跳ぶことが求められていた。
地面に着いている時間をできるだけ短く、素早く、前に、跳ぶことを心がけた。
あとは、恐怖に打ち勝ち、思い切りやること。
記録は15m16。
大台突破、大会新記録での優勝だった。
そしてシンジもこの試合で15mを越えた。
一躍2人はインターハイ優勝候補に名乗りを上げたのだった。
ところが、腰の状態はなかなかよくならなかった。
インターハイ京都府予選は、一本跳んでパスする最低限の負担で切り抜けた。
シンジは15mに迫る好記録で優勝、僕は3位で『ライバル対決は次回に持ち越し』『肩すかしに終わった』と陸上雑誌にも書かれた。
この年の近畿は異常なハイレベルだった。
僕たちを含め府県予選までで15mを越えた選手は7名にのぼり、順当に行ってもそのうちの1人は全国へ行けない計算だった。
その近畿の決勝のベストエイトに、僕とシンジと、チームメイトのロクも残っていた。
京都勢が8人中4人だった。
僕は14m87を跳び、5位で危なっかしくもなんとか全国を決める事ができた。
シンジは好調で優勝争いをしていた。
ロクは、あと一歩届かなかった。
「俺の分も頼むで」
涙をこらえながら、握手してくれた。
あの時の手の感触を、今でも鮮明に覚えている。
迎えた全国。
予選を一本目で通過した。
決勝のアップの会場にいたのは、名古屋のムラカミだった。
のちに彼とは同じ職場になるがこのときは知る由もなかった。
彼は、圧倒的な強さだった。
アップの動きだけで、大記録を予感したほどだった。
結果は、彼のインターハイ大会新記録での圧勝だった。
全体的にレベルの高い記録が並ぶ決勝となった。
シンジは3位、僕は8位。
3年前に約束した「全国でワンツー」は達成できなかったが、全国の舞台で2人揃って表彰台に立てたことは、少し嬉しかった。
ただ、やり切った感の無い、何かモヤモヤした感情が残った。
インターハイが終わり、僕は大学受験にシフトすることになった。
進学校に変わった一期生は、勉強でも結果を出すことを求められていた。
「お前が国公立行かな、来年以降後輩がインターハイまでやっていいんか不安になるやろ。そうならんために、ここから受験に切り替えて国公立目指せ」
そう言われて、大学では勉強に力を入れたいと思っていた僕は、私立大の陸上の推薦を全て断った。
腰の怪我、少し燃え尽きた気持ち、陸上第一ではない進路。
もう高校で陸上を終わってもいいかな、と思っていた。
「全国でワンツー取ろう」
シンジとのその約束だけが、頭に残った。
サポートいただけたら嬉しくて三歩跳びます。