最終話 社会人で陸上を続けるということ
大学を卒業し、一般採用で僕はとあるインフラ企業に入社した。
大手スポーツメーカーの内定と迷ったが、社内に陸上部がすでにある環境を選んだ。
環境さえあれば、あとは自分次第で何とかできると考えた。
手厚い研修が半年続いた。
朝から晩までスーツに革靴で過ごすと、夕方には足がパンパンにむくんでいて、ランニングシューズも履けないくらいだった。
入社をきっかけに実家を出て一人暮らしも始まり、環境変化が大きかった。
競技をやる以前に、生活環境の安定がこれほど大事なんだと痛感した。
慣れない生活に、体が付いてきていなかった。
社会人最初の試合は、14m中盤の記録だった。
自分でも驚いたが、『まだ始まったばかり』と無理やり自分に言い聞かせた。
6月、日本選手権の時期。
この時期の研修は、一般家庭を徒歩で回ってアンケートを取るもので、多い日には100軒近く訪問し、朝から晩まで歩き続けた。
日本選手権の前日も、同じだった。
この時の日本選手権は、過去に無いくらい集中を欠いた。
後手後手の試合展開に修正が効かず、14m20くらいの記録でほぼ最下位だった。
記録が出ないと、だんだん強引な跳躍で無理やり持っていこうとしてしまうものである。
ホップ・ステップを行う右足首を何回も痛めた。
僕は考えた。
この1年に見切りをつけ、試行錯誤の年にしようと。
まず、怪我の影響もあり、踏切脚を変えることにした。
走りも跳躍も、左右両方の脚を使うので、きっとプラスになると思ったし、逆脚強化に繋がると思った。
そして、どうせ踏切脚を変えるのなら、とことんスタイルを変えようと、シングルアームからダブルアームに変えた。
慣れない動作に四苦八苦しながらも、体の機能が向上していくのを感じた。
結果的に、この逆脚踏切ダブルアームスタイルで、15m50のシーズンベストを記録した。
秋になり、法人営業の、しかも難易度の高い業種を相手にする部署に配属された。
仕事を覚えるのに必死だった。
営業ということで、飲みの席にも誘われることもあった。
一般の会社員で陸上を続けるのには、2つの大きなハードルがあった。
まず、時間の問題。
競技場はどんなに遅くても夜9時には閉まる。
仕事を終えてどんなに急いで競技場へ向かっても、練習時間は大学時代の半分だった。
平日は残業もあって、頑張って2日競技場練習日を作るのが精一杯だった。
そうするとどうなるかというと、土日に練習を詰め込む。
月曜日から日曜日まで、仕事も練習も無い体を休める日は無いのである。
捻出した時間を練習に充てるので、自然と体のケアに割く時間が少なくなり、コンディショニングがとてつもなく難しくなった。
競技場が閉まるなら、早く会社を出るしか無いので、一人でできる資料作りなどの仕事は始業前に出社し、極力朝行うように工夫した。
また、移動時間を極力削るため、競技場の近くに引っ越した。
時間は自分で作るしかないのだ。
次の問題は、職場の理解だった。
上司から飲みの席で、『陸上やりながら務まるような甘い仕事じゃない』『もうそろそろええんちゃうか』と散々言われた。
ここで反発してしまう人もいると思う。
でも冷静に考えたら、陸上の魅力を知らない人からすればただの趣味であって、事実として仕事の場面で僕の跳躍力は1ミリも役に立たなかった。
その日から、僕はとにかく応援してもらえる人になろうと思った。
まず第一に、仕事で成果を残すこと。
これができないと何を言っても変わらないからだ。
そして次に、どんなに相手が興味無かろうと、どんなに小さな試合でも、必ず大会結果の報告を上司にすることにした。
賞状をもらえた時には、わざわざ会社に持っていって見せた。
変化は少しずつ起きた。
厳しい言葉を投げかけた上司や、同じ部署の先輩たちが『調子はどうなんや』『試合頑張れよ』『飲み会なんか来んとお前は練習せい』と声をかけてくれるようになった。
僕が心から尊敬している指導役だった先輩がめちゃくちゃ仕事ができる人で、その方の最大限のサポートで、営業成績も良く社内表彰も受けた。
こうして職場の応援を受けながら、自分の競技スタイルを徐々に作り上げていった。
限られた時間で何をするか。
練習内容を分類・優先順位付けし、本当に必要なところだけに時間を割り振った。
当時は、走ることだった。
助走速度の低下が記録低迷の原因だったからだ。
仕事で疲れた状態で練習するのは誰でも辛い。
特に、呼吸が苦しく脚も動かなくなる走練習は辛い。
ウエイトトレーニングは、それほど呼吸が苦しくない割に、筋肉がパンプアップして、『やった感』があった。
これは僕にとっては甘い罠だった。
一切のウエイトトレーニングを削って、走りと自重トレーニングに振り切った。
また、大学までは感覚を重視していたが、客観的な指標として必ずタイムを取るようにした。
ある日のことである。
仕事で疲れた体にムチを打って、200mを全力で走った。
感覚的には、全力である。
タイムはなんと25秒。
想像より遥かに遅かったのだ。
この日から、弱さを受け入れ全てをタイムで評価した。
少ない時間で、最大効果を得るため、ウォーミングアップもただウォーミングアップとして行うのではなく、練習メニューの一部分として構成するようにした。
練習の集約化は翌シーズンに結果となって表れた。
15m98まで記録を戻し、実業団選抜にも選ばれ海外遠征も経験できた。
この後、5年ほどウエイトトレーニングは封印した。
思い通りに体を動かす能力や、大きい筋肉と大きい筋肉を繋ぐ細かい筋肉を身につけることを主眼に置いた。
そのことで生まれたのは安定感だった。
どの大会も、ベストエイト落ちすることがなくなっていった。
営業マン3年目を迎えた2012年。
所属する会社のある大阪で、日本選手権が開催された。
この大会は、僕の競技人生でとてつもなく大きな意味を持つ大切な大会となった。
陸上を続けるため、応援される人になろうと決めてから、気づけば本当にいろいろな方に応援してもらえるようになっていた。
日本選手権当日には、陸上関係者、職場の先輩後輩、そして驚くことに取引先の方など数十名の方々が、スタンドに足を運んでくれたのだ。
手作りの応援うちわや横断幕まで作ってくれた。
この感動を、忘れることはできない。
どんなに陸上が素晴らしくても、興味を示す人、見てくれる人がいなければ、その素晴らしさは自分以外の誰もわからない。
大きな応援の力を背中に受け、僕は向かい風の中、3年ぶりの16mジャンプを日本選手権の舞台で跳んだ。
順位は大学4年時の8位を上回る4位だった。
これだけで僕の日本選手権は終わらなかった。
職場の一体感の醸成に貢献したとして、人事部から特別表彰を受けることになった。
初めて、陸上で、陸上と関係ない人を幸せにした気分だった。
仕事をしながら、陸上を続ける道は決して楽ではない。
大学卒業を機に、フィールドから去る選手も多くいる。
社会に出れば、辛い練習に耐える以外にもさまざまなハードルを越えなくてはいけない。
しかし僕は、社会人になる選手に『社会人陸上はいいぞ』と言う。
それは、陸上を通してより、自分と向き合えるから。
陸上の良さを改めて感じ、陸上を知らない人を巻き込めるから。
きっと茨の道を行く社会人アスリートの姿を見て、頑張ろうと思えたり、一緒になって頑張れている人がたくさんいると思う。
今年で陸上21年目。
振り返ると1年1年いろいろなことを経験し、いろいろな感情を抱き、歩んできた。
いつまでやるのと言われることもあるし、自分でもいつまでやろうか悩んだこともある。
でも今は、応援してくれる人がいる限り、たとえ遠くに跳べなくなっても、陸上を続けていたいと思う。
その原点は、あの日の日本選手権。
陸上を知らなかった人たちのお陰。
サポートいただけたら嬉しくて三歩跳びます。