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最果タヒ展に行ってきたという話

先日、最果タヒ展に行ってきた。自分は最果タヒさんについては昔[Alexandros]のハナウタという曲の詩を担当したことくらいしか知らなかったし、増して本人の書いた詩というものを読んだことがない。ただTwitterのタイムラインに流れてきた最果タヒ展の展示写真を見て心惹かれたから、それだけの理由だった。
人は思いがけない出会いには心を奪われやすい。自分も例に漏れずそんな思いがけない出会いに堕ちた一目惚れの被害者だったわけで、気がつけば本能の赴くまま給料日前だというのに腹を空かせた財布片手に渋谷のパルコまで足を運んでいた。

衝動的に訪れた最果タヒ展の中は言葉で満ち溢れていた。詩人の展示会なのだから当然と言えば当然だし、なんなら写真を見た時点でわかることではあるがやはり実物を目にすると改めて言葉というものが空間を形作る光景に圧倒された。
展示会の中には多くの人がいたがどのような人がいたのかは覚えていない。人の顔や姿が空間に漂う言葉に掻き消されてしまったからだろうか。人に囲まれた中でどうしても一人でいるような感覚であった。誰も彼もが口を噤んで一人だった。今思えばそれはポジティブな言葉もネガティブな言葉も全てが綯交ぜに空間に浮かべられていたから、展示会の中にある言葉が自分達の心の内を代替してくれたから、だから皆黙り込んでいたのだと思う。

展示会の中では様々な方法で詩が展示されていた。壁に書かれた詩、立体物として芸術作品のように展示された詩、天井から吊り下げられた詩、宙に浮かぶ大きな輪っかの内側に書かれた詩、姿形を変え視覚的なバラエティに富んだ作品の数々がそこにはあった。
紙の上に書かれることなく壁に、立体物に、空中に、自由気ままに決まった姿を持たないその様は言葉というものは流動的であるとそう自分に伝えているかのようだった。

確かに言葉が人によって生み出されてから今現在に至るまでに決まった姿でいたことなんてなかったのだろう。「早急」は「そうきゅう」と読み方を変え「性癖」は「性的嗜好」へと意味を変えた。
このような言葉の不安定さというものを詩を通して、展示物を通して視覚的に私達へと伝えること。それこそが最果タヒ展における一つの重要な目的であったのかもしれない。名前だけしか最果タヒさんのことを知らなかった自分がこんなこと言うのもおこがましいのかもしれないがそう受け取れた。

中原中也や吉野弘、宮沢賢治など自分自身詩というものに触れてきたことは何度かあったが、言葉の様態を変え様々なアプローチで詩を読むという行為はとても新鮮な体験であったし、姿形を変化させていく言葉の総体である詩というものへの読み方を考えさせられた。
そして何より最果タヒさん本人の詩集というものに興味が湧くとても面白い展示会だった。給料日になったらお腹を膨らませた財布を持って『夜景座生まれ』を買いに行きたい。

↑会場で貰ったミニ本『6等星の詩』と
物販で買った最果タヒ展オフィシャルブック「一等星の詩』

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