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自分とはなにか

認知心理学についての本を読んだ。

ざっくりとしか読んではないが、確かにと思うことがいくつかあった。

認知心理学の観点からは”私たち一人一人の中に私たちが知らない別の人がいる”という考え方がある。

自分自身の定義づけが曖昧で、どこからがちゃんと自分と思うのか分からないことからいっている。

人は、自分の世界をちゃんと見ていると信じていて、そうではないことに指摘されるまで気が付かない。

自分の経験を観察できるようになるプロセスが大切。

そこに意識を向けないと経験はしていないことと同じになるのだ。

では、意識的な経験とは本当はどんなふうであって、どんなふうではないのか?

腕を動かすという経験は
心の産物で、大元の要素自体は経験されないが、心がそれを使って近くを生み出している。

人は物事を完璧に理解することは無い。

全体ではなく一部しか知覚しないからだ。

世界に対しての私たちの近くはそういう細部に気づいてないことに気づかず、外界を正確に描写した解釈ではないだけだ。

そして、それだけではなく、私たちは実際には知る必要があるものしか見えてないのに、自分は細かい全体像を把握していると誤解している。

例えば、絵を見せられて質問を用意するとしよう。

この人は幾つですか?この人はどこに住んでいますか?この人はどんな関係だと思いますか?

何を聞かれているかによって被験者の目は全く異なるパターンで動き、当面の質問にとって最も参考になるように絵を見ている。

つまり、1部分のみを知覚するということである。それでも私たちは全てを知ったような気になるのだ。

また、何も変わってないものを違うように感じるのはあなたの脳の中で起こっている。

視覚というものは受動的ではなく、能動的なものである。

視覚系は対立する情報間の争いを仲裁しているのであり、実際にそこにあるものを見ているのだけでなく、その瞬間に勝っている方の近くの内容を見ている。

有名なのはひとつの絵がふたつの見え方をするというものだ。

あれも絵自体は変化していないが、意識をどこに向けるかによって変わったように見えるだろう。

そして、目は盲点があり、網膜のかなり大きい部分に光受容細胞がない。

それでも、両目でそれぞれの盲点を補いあい、さらに脳が情報を補完する。

そう考えると認知ということがどれだけ個人によって依存しているかがわかる。

見る、経験、知る、そのどれもが無意識に行われているように感じるが、それは脳の中で起こっていることに過ぎないということだ。

同じに体験でも、自分自身で視点や考え方を変えることによって何倍も情報を得るということが出来る。

やるだけ、みるだけ、で終わらず、自分というものを自分自身で考え、理解する必要があるというわけである。

自分自身とはなかなか難しいが、曖昧で終わらさせずに自分の中に落とし込んでいきたいと思う。

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