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「休職」をかんがえる〜改めて、「休む」とは(続)〜

あまり語られない「休職」

世の中では、思ったよりも多くの人が自身の体調不良などによる休職を経験している。
なのに、あまり語られないのは、恥ずべきことだと、知らず知らずのうちに思ってしまっているからなのか。
弱みを見せては生きていけない。そんなふうにも、小さい頃から意識づけられていた。

また、「生産性」という言葉も、最近の世の中には強く根付いているように思う。
休んでいる間、外向きには何も生産していない。けれど、自分の中ではいろんなことが起きている。心の中にいろんなことが降って湧いて、駆け巡って、ぐるぐるして。内側ではいろいろなものを生産してる。
その内側で生産したものが、役に立つか、立たないか。直接的には、そしてすぐには他者に役に立つわけでないかもしれないけれど、内側のモヤモヤはどんなものであれ、その人自身の糧になり、いずれ自分という存在を通して、いろいろな姿で他者を支えていくのではないかと思う。

「休職は恥ずべきことではない」「人は誰でも休むもの」という考えをもっとフラットに共有できれば、社会から取り残される恐怖は減ると思う。

他者の目線と、自分の目線

とはいえ、自分の経験を振り返れば、他者の目線だけではなく、自分に対する自分の目線も、「休む」ことを邪魔していた。

「せっかく声をかけてもらったから」「今の機会を逃したら(仕事的にも、自分のキャリア的にも)もったいない」という焦りや不安の感情が、休むことを邪魔をした。

弾みがつくとついつい、自分の時間を無視して、そのまま仕事をしてしまう。
だからこそ、休むということをもっと意識する。
単にアクセルから足を離すというだけではなく、ちゃんとブレーキをかけるイメージで。


もし、これを読んでくださっている人の中で、働くことに焦りや不安を感じていたら、立ち止まっていいんだと伝えたい。

休むことは無価値ではない。
人という生き物として、当たり前なことなはず。
立ち止まること自体、とても不安なことだけれど、自分を取り戻すには必要な作業だ。

自分で自分を抱きとめる。
できた自分も、できない自分も、受け止める。
受け止めるための時間が必要と気づいたら、その時点で「本日休業」の看板を出す。

もしかしたら(というか確実に)、私に関わる人には迷惑をかけてしまうと思う。
迷惑をかけるのは申し訳ないと思うし、恥にも近い気持ちを感じる。
それでも、少しでも必要あれば「本日休業」という看板を出そうと覚悟したのは、身近な人に対して、自分をボロボロにしてまで踏ん張る必要はないと伝えたいからだ。

私自身、身近な人の「おやすみ」を受け入れられるように。
そして、人それぞれの「おやすみ」を、わがままと捉えない社会にしていけたらと思う。

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