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小さな画面の向こうの大きな世界

毎日スマホを手にしている

20代の人たちはもう生まれた時からスマホがあって
電話というものに対してきっと自分とセットな感覚があるんじゃないかなと思う

わたしは昭和世代なので
大人になってから携帯電話なるものが登場した
私の携帯電話デビューは割と早かったように記憶している
友だちが携帯電話会社に就職したので
契約して欲しいと頼まれて
断り切れずに契約したのだった

当時の携帯は今で言う固定電話の子機みたいなフォルムをしていた
その頃から比べたら携帯電話は
あっという間の進化を遂げていると思う


携帯電話と呼ばれていた時代は
名前の通り電話を携帯している、まさにそのもの
電話を持ち歩くという感覚で
通話がメインで
今で言うショートメールみたいなものは出来ていたのではなかったかと思う

懐かしい


今は、「携帯電話」という言い方はほとんど聞かない
スマートフォンになったのもそんなに昔ではない気がするけど、もうスマホ世代という言葉があるくらいだから、一昔前のことなんだろうと思う

スマートフォンになってから携帯電話は電話というよりも、持ち歩く小さなインターネットになったと思う

画面に触れれば起動し
インターネットのアイコンに指が触れるだけで
この地球上のどこまでもと繋がることが出来る

時間も言語も人々も
何時でも、どこまでも繋がっている


小さな画面にほんのちょっと指が触れるだけで
世界と繋がることが出来る
今はもうそんなことを誰もすごいなんて思わない
もうそれが普通の世界になっている

人混みを歩いていて
バッグの中でスマホが微かに振動したと思った
私が急いで外回りをしているこんな時でも
私宛にメールや着信やいいねなんかが来たりする

スマホを持っているだけで
常に何処かと誰かとこうして繋がっているという
この不思議な見えないコードみたいなものが
大袈裟ではなく人混みの中で見えたような気がした

横断歩道の前から歩いてくる人の手にしたスマホからは
黄色、青、オレンジなどの色のコードが
私を追い抜いて行った人のバッグからは
ピンク、紅色、水色のコードが
そんな風に人の数以上にコードが複雑に交錯して
絡まることもなく、光のコードは滑らかに情報を送っている

画面を見ていなくても
そうしてスマホを持ち歩いているだけでも
私たちはスマホを媒介とした見えないコードと繋がっているんだと思ったら
それはとても気持ちの良いものではなかった

何時でも誰とでも常に繋がっている状態は
どこまでが自分で
どこまでを自分にしたらいいのかが分からなくなってしまうんじゃないか


求めていなくても送られて来る商品プロモーション
知らなくてもいいのに知らされる◯日までにという心理的脅迫めいたお節介ワード
どこまでが事実かもはやフェイクが一回りしているようなニュース

情報の坩堝と化した文字列や画像で
この世は溢れかえっている

片手で持てるこんなサイズのスマートフォンなのに
その存在の大きさは、情報の宇宙と言えるくらい大きなものになっている

手の中にある宇宙みたい


そのスマートフォンが見えない光のコードと
常に繋がっているということは
私自身のエネルギーも
何時でも何処にいてもたくさんの人たち
それは知っている人も知らない人とも
繋がっていると言えるのかもしれないと思った

今ふと思ったことは
それは本当に私が思ったこと?
突然食べたくなったお菓子は
本当に私の胃が欲しているもの?
無性に行きたくなった美術館は
本当に観たいと思ったから?

そんな風に
自分の感覚に自信が持てなくなった

1日の中で
スマートフォンの宇宙を漂っている時間はどれほどだろう? そう思うと
今閃いたこのワードも
どこかで目にしたり聞こえてしたフレーズかも知れないと、ただただ自分の感覚に不安が増して来る

いつの日か
もうそう遠くない時代には
スマートフォンが私たちを使うポジションになるのかもしれない

スマートフォンを活用してビジネスや
ネットワーク、クリエイティブなことをしていると私たちは思っているけれど
もう今産まれた赤ちゃんが大人になる頃には
人間がスマートフォンに使われる時代になるのかもしれない

そんな時代になって
人間はどんな風に生きているんだろう


小さな画面の向こうの大きな世界を
指先でタップしながら
カオスとなっているかのような情報に溺れないように
自分に本当に必要な情報を
取捨選択出来る人間でありたい

自分の感覚を知り
自分の感覚を信じ
自分の感覚で行動して行きたい

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