24.01.14 対話・グルーヴ・ソサエティ3

 今年は「脱・レトロゲームのプレイ動画」と決めている。なるべく今っぽいものに触れてみようということにしている。それにより「良いもん見たな」になるのか「時間を無駄にした」となるのかは分からないけど、とりあえずそっちの方が新陳代謝が出来ているような気はするので、その方がいいです。

 …というわけで、VIVANT見ました。今更。

 全体的にツッコミどころが多々あるというか、そいつはちょっと強引すぎるんじゃないですか?みたいな展開も多く見られたけれども、まあこれはこれで「面白い」ということでいいんじゃないかなと。面白く見ました。最後の最後だけ、謎の思想が展開されてしまったり、ポッと出の人物がいたり、なんだか全体的に置いていかれてしまった気分になったけども。
 序盤の肥溜めでチンギスをやり過ごすシーンとか、砂漠で二階堂ふみを探しに戻るシーンとか、残り15秒くらいでまだサーバーの場所が見つからないシーンとか、それ以外にも挙げたらキリがないくらいにとにかく要所要所で緊張を煽ってくるあの感じも、ある意味今っぽさなのかなとも思った。常にドキドキさせておかないと視聴者は次の刺激を求めて、離脱してしまうのかもしれない。あと、リアルタイムの時はいわゆる「考察」みたいなものが大流行りしていたらしいけど、その辺の感じも今っぽい。
 おなじみ堺雅人の独特な早口、阿部寛のフフンな表情などなど、俳優も狙った感満載。どこを切り取ってもエンタメのてんこ盛りで、普段ドラマをほとんど見ない自分でもお腹いっぱいなので、人によっては相当胸焼けするんだろうなあというくらい、こってりしていた。そんな中で、役所広司がしっかり「どんな表情をしたらいいか困ってしまっている人」を演じてくれていて、あれで結構無理やりに締まっているなという感じ。面白かったのにこういう書き方になってしまうな。でも、自分以上にツッコミを入れまくる妻の方が面白かった。

 あれも見ました。ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー。アマプラ。今っぽいものとか言ってもう1年前じゃんとか言わないでほしい。流行り物に対して構えてしまう人生なのだけど、そろそろそういうものと決別したい気持ちもある。

 こちらはVIVANTの対極というか、極めてあっさりした後味。「面白かったねえ」以外の感想が何も残らない。このぐらいにうっすらとしたものにしなければ、万人受けはしないのだろう。日本生まれのマリオがすっかりアメリカナイズされている様はなんとも感慨深い。それでも「ヒーロー」が流れたり、結婚行進曲が流れたりしているシーンはほんのりと日本の匂いがするものでもあり、面白かった。
 …VIVANTに比べてほとんど書くことがないんだけど笑、これもまたエンターテイメントなんだろうなと感じさせられる映画だった。ヨッシーがもうちょっと見たかった。

 Twitterのアカウントを消してだいたい1週間くらいになる。アカウントがないとリアルタイムでの動きが追えない仕様になっているというのはちょっとビックリした。mixiみたいだな。
 「いま、揺れた?」みたいなときにパッと見られるものが無くなってしまったので手持ち無沙汰みたいな感覚になることもしばしばあるが、これはこれでまあ慣れられたらいいなという気持ちです。

 サッカー。間違ってDAZNを年間契約にしてしまい、Jリーグのシーズンが終わっても解約できなくなってしまったため、勿体無いのでアジアカップを見る。日本代表はずいぶん雰囲気が変わりましたよねえ。ベトナムに逆転されても、全然慌ててない。20年前と今で何がいちばん大きく変わったかと言ったら、間違いなくメンタルなんじゃないでしょうか。ベガルタにも見習ってほしい。

 あと、この辺の動画を見ていた。星加さんの本は買っていたのだけど積ん読になってしまっていたので、表層だけでも触れられればと思って見た。追って読みたい。
 「マジョリティの内省を促すコンテンツ」みたいなものは本当におっしゃる通りだなと感じた。「ジョーカー」なんかそういう部分のあるコンテンツでもあったように思う。
 自分なりに噛み砕くと、ちょっと前なら「障害を持っていて、かわいそうな◯◯さん(なので、社会が守ってあげよう)」として消費されていた界隈のコンテンツが、今は「障害を持っているけど、(努力によって)自分の生きる道を見つけた◯◯さん(なので、すごいんですよ)」として消費されるようになってきているのかなというのは確かにわかるような気がする。「養護学校」が「特別支援学校」と名を変えたのは一つの象徴とも言える。
 これは確かに社会の変化ではあって、良いか悪いかで言えば良い方向の変化なようには思うのだけど、「障害を持っているけど、努力ができないから自分の生きる道を見つけられない◯◯さん」の立場は以前よりもかえって悪くなってしまったのかもしれない。だって、「かわいそうな◯◯さん」であれば誰かがお金を恵んでくれたわけだが、そうはいかなくなってしまう。いわゆる「equity」的な考え方がどんどん整備されていったときに、ときに過剰なequityが生ずることもあるのではないだろうか。
 例えば、知的障害者の性的欲求に関する課題が可視化されつつあるが、「◯◯さんの性的欲求は(障害があって制御できないのだから)仕方ないもの」ではなく、「◯◯さんの性的欲求は(適切な配慮を受けているにもかかわらず制御できないのだから)本人の努力不足」みたいに扱われるようになる日が来てしまったりするのかもしれない。配慮の元であれば責任能力が認められるということである。実際に「適切な配慮」が何かは、おそらくわからないままに。果たしてどっちが彼/彼女にとって救いだったのかは、よく分からない。
 思うに、「努力」だけが唯一、人を測るものさしみたいなものになりつつあるような、そんな気はする。それでいいのかな?

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