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リビング・イン・ニア・トーキョー #1

音を再生しながらお楽しみください。


 駅ごとにバラバラの発車メロディは、つなげると1つの曲になるらしい。

 片手間に見たWikipediaで知った、こじゃれた仕掛け。それが、通勤に疲れる人たちに少しでも和みの瞬間を、という運営会社の粋な計らいなのか(疲れている時にそういった細かいことはなぜか気分転換のきっかけになる)、はたまた単なる自己満足なのかは分からないが、少なくとも自分だけは術中にハマっていた。

 きっと、故郷の人間では思いもつかないだろうし、そんな曲を作れる人間もいない。彼ら(と自分)にとって、電車は単なる移動時間短縮用の便利なツールにすぎない(すぎなかった)。そもそも発車メロディなんてものが無い、車掌の笛で電車のドアが閉まる駅すらあったじゃないか。

 かろうじて、かろうじて地下鉄が走る我が故郷。でも、故郷...あの街で語られる「都会」と、いま自分が目にしている「都会」は明らかに異質だ。あの街の「都会」とは、人のごった返すアーケード街であり、右上がいつまでも欠けたままの電光掲示板であり、「お父さん、お母さん、先生方、地域の皆様」という煩わしさの定型文から逃れるための空間であった。
 ところが、いま自分が目にしている「都会」とは、隅々まで行き届いた仕掛けであり、一様に下を向く黒服の人々であり、笑い声などひとつも聞こえない電車の中である。それは、明らかに異質のものであった。


「都会の音だ!」。Youtubeのコメント欄に見つける言葉。7割の憧れと、2割の侮蔑と、1割の自嘲が渦巻くこの言葉は、あの街の「都会」のにおいも、自分の視界の中の「都会」のにおいも纏っていない。それでも、この言葉を見てあの街の光景が浮かぶのは、たくさんのコンテクストを1つに圧縮してしまうことのできる、言葉がもつ特殊能力の為せる技だと思う。

 果たして、何年後に帰れることになるのかも分からないあの街は、次に会う時にどうなっているのだろう。駅前の一等地の再開発は進んでいるのだろうか。いつまでも終わらない市営バスのホームの改造工事は終わっているのだろうか。...と、一昨日まで住んでいた、まだ鮮明に覚えている街が頭に浮かぶ。このハッキリとした残像も、次第に薄れていくのかもしれない。

 きっと、住むことにでもならなければ(あるいは例のウイルスという災禍がなければ)、こんなメロディの仕掛けにも気づかず、目と鼻の先にあるスカイツリーとディズニーランドに漫然と心を奪われていた。そんな気付きが、改めて自分に実感させる。

 知らない街での生活が始まる。
 バラバラのようでつながっている発車メロディの、最後の2小節が流れるのを背中で聴きながら、同時に、一つの決意がまた頭の中で繰り返される。反芻される。リピートされる。そして、駅前の(減ったにしてはまだ多い)雑踏と、ありふれたチェーン店の中にぼやけて消えていく。


知らない街での生活が始まる。




都会っぽい歌を聴きながらお読みください。

 
 「都会」というからには、きっと家の周りには高層ビルがあふれ、駅前にはホームレスがたむろし、部屋の中にはゴキブリが鎮座していらっしゃるのだろうと思っていた。ならば、聴く音楽もなんとなく洗練された「都会っぽい」ものの方がいいし、やっぱりコーヒーも飲みたい。

 15分後、幻想は裏切られた。

 家の周りにあるのは畑だったし、駅前にはホームレスの影など一つもなかった。聴く音楽は相変わらずNakamuraEmiやMOROHAのような暑苦しさ極まりないものだし、家について最初に淹れたのはコーヒーではなく濃い味のお茶だった。唯一、部屋の中に突如現れたゴキブリだけが、自分のイメージの中の「都会」の期待に応えてくれた。最悪の方法で。

 「都会っぽい」のかけらも感じないこの街は、なんとなく、自分の暮らしていた故郷の風景に似ている。寺町の風景。いまから何百年も前に、城下町から離れたところで形成された風景がそこにある。知らない街のはずなのに、懐かしさが感じられる。家にたどり着くまでの坂を登っていると、「帰ってきた」ような気分になってしまう。
 近くに住んでいた友達に見せてみたくなるくらい、似ている。あの街の風景と、あの街の風景を足して2で割ったような...と言えば、たぶん頷いてくれる。ちがうのは、電車の本数がちょっと(かなり)多いくらい。そして、初めて買ったゴキジェットが部屋に鎮座しているくらい。

 新しい暮らし。
 木造アパートの1階は、隣や上の部屋の生活音が響いてくる。テレビの音。掃除機の音。遠くには線路の音。その微妙な煩わしさになぜか心地よさを感じていることもあって、物件選びに迷うことはなかった。
 故郷の生活音が頭の中によみがえる。犬の鳴き声を思い出す。そういえば、あの街の生活の中にも線路の音があった。そんなところまで似ている。

 はじめは、デジャヴすら覚えるような風景に少々落ち込んだが、だんだん「ここでよかったかもしれない」と思うようになってきた。これから始まる仕事のことを考えれば、少しでも生活の中に「慣れ」があった方がいい。


 新しい暮らし。だけど、なんとなく知っている暮らし。


 このエッセイのタイトルは、もともと「リビング・イン・トーキョー」になる予定だった。田舎者の東京奮闘記というありふれたものにするつもりでいた。
 しかし、故郷から320キロほど近づいたとはいえ、ここに思い描いたトーキョーはない。したがって、タイトルは「リビング・イン・ニア・トーキョー」という、ちょっとだけありふれたものになる。田舎者の東京近郊奮闘記。どメジャーなものがなんとなく肌に合わない自分にとっては、このくらいがちょうどいいのかもしれない。


 夜になる。隣の部屋から口笛が聞こえる。もう一度、濃いお茶を注いで、僕はまた一つの決意を反芻する。それは、子守唄のように。


(2407字)

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