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リビング・イン・ニア・トーキョー #24

 唐突に本を読んだ話をしたくなったので、本を読んだ話をする。
 読んだのは、東浩紀さんの「ゲンロン戦記」。とても面白かった。

 ぼくは、一部の文系学問界にいる人たちは、すごく無菌室的というか、浮世離れしたものというか、理想主義的というか、そういった人たちなのだろうと捉えている。ああいう人たちは最悪、研究室と名付けられた自分の書斎で、誰とも関わらずに一生を過ごせれば満足な人たちなのだろうなと思ってぼくは見ている。そのくせ彼らは自分でその環境を手に入れるための努力をするわけでもなく(しているのだろうけどそれを努力と認めたがらない)、お金は勝手に空から降ってくるか地面から生えてくると思っているのだろうなと感じることがある。その書斎が他人によって作り上げられたものであるとも知らずに。自分の高等遊民的な生活がお金のもとで成り立っていることに無自覚で、平気でお金を否定しようとする人たち。そんなイメージがある。

 文字だけ見れば棘々しいし、偏見にまみれているような書き方をしたかもしれないけれど、べつに文系学問の世界を腐していたり否定していたりするわけではなくて、ぼくたちのマインドや暮らす世界がそこから抽出されていくことも分かっている。彼らの突拍子もない、しかし極めて実用的な思想が、そういった異世界から生み出されることも、なんとなく分かっている。なによりぼく自身、今まで通ってきた道は歴史、法律、教育と、いちおう文系的な世界で育てられてきた人間の一人でもある。ただ、本を書いたり研究したりして暮らしているような人たちとは、畑が違うな、もっと言えば住む世界が違うな(むろんあっちが上)と思っている。彼らの世界に憧れたこともあったし今もそれができるならそうしたい気持ちがないわけじゃない。けど、それがいわゆる「隣の芝生は青い」的な心情であることに気づいたのはつい最近の話になる。

 そんな中で、こういったなんとなくアカデミックな空気をまとっている人が、ビジネスという学問とは極めて対極的(に見える)な世界に飛び込んで、失敗を繰り返しながら、自身の言葉で、自身の文脈で「ビジネスとは何か」を定義づけようとしている姿というのは、なんだか非常にカッコよく見える。定義づけようとしている、というか、定義づけなければならなくなって仕方なく、と言ったほうがよいのかもしれないけれど。そして、自身で定義づけた「ビジネス」という現実的なフレームの中で、それでも「世の中を変えましょう」という、一見すると背反したビジョンに基づいて挑戦していこうとする姿が、ぼくにはとても魅力的に見えてしまう。

 この世に数多ある文系学問的な本(あるいは小説でもいい)を読んでいると、文字の間からよく厭世的な雰囲気を感じることがある。この世はダメダメでどうしようもない、みたいな気持ちをこの人は持っているんだろうな、というのが滲み出ているな、と感じてしまうときがある。端的に言うと、「人が嫌い」なんだろうな、というやつ。
 でも、東さんの話ぶりからは、あまりそういうのが感じられない。うまく言い表せないのでざっくり言うと「人が好き」みたいのがあるんだろうな、と思う。あとはたぶんお話も好き。きっと、人や会話が好きだから、「人にとって良いもの」を追い求めたくて、その結果人の世界で試行錯誤をして、末に「人によって良いものというのは人と人の間からしか生まれてこないのだ」、という価値観にたどり着いたんじゃないかな、と偉そうにぼくは推察している。だから、飲み会だって推奨するし、今のコロナワールドではもっぱら敬遠されている「密」を意図的に作り出しまくっていたのだと思う。

 飲み会大好き、人と会うの大好きなぼくとしては、こういったところにもなんだかものすごい共感を覚えてしまう。「合理性」とか「効率」という言葉に疑問が投げかけられているところも共感ポイントだった。「誤配」という言葉を使って語られているけど、そういった一見すると無駄なものにこそ価値があるのだという話。ぼくはまごうことなき無駄信者なので、やっぱりいいなあと思ってしまう。
 もちろん「合理性」とか「効率」を全否定するわけではないというのは触れておく。ぼくはそもそもなんでも白黒つけようという発想自体にケチをつけたいタイプで、側からみたらたぶん「めんどくさい」人間なんだろうけど、思うに人の核心というのはたぶんそこにあって、その「めんどくさい」とがっぷり四つになっていかなきゃ、「良いもの」って見つけられないと思っている。時には嫌な気持ちにもなるし、投げ出したくなる時もあるし、実際投げ出すんだけど。それを経験していく過程がどっちかといえばプライスレス。それすらも経験したくないな、その経験に精神的費用を払いたくないな、と思ったときに、初めて道具として「合理性」とか「効率」が登場することになると思うんだけど、どうもその道具に心と体を乗っ取られている人たちがいると思うんだよね。もしくは、道具を誤用して、抜け道的に使っている人たち。

 自分語りになったけれど、こういう東さんみたいな人がこんな発想を持っているんだから、という気持ちになれて、勝手にけっこうやる気になったので、いい本だったなあと思った。そして、こんなご時世に、試行錯誤しながらもなんとかやりたいことをやっている東さんの語りには、えらそうで恐縮だけどちょっと勇気もいただいたし、道筋も見せていただいた気がする。ひょっとしたら、ゲンロンを立ち上げるまでにいろいろ実績を積んできた人だからこそこんなこともできるのでは?と思ったりすることもあるけど、まあ、それはここから自分が積み上げていけばいい話なので、あまり考えないようにする。

 長々と書いてしまった。自分が「いい本」と思えるようなものは、読んでいると、自分の秘孔みたいなところを突かれているような、やる気スイッチを押されているような気分になる。もしくは、視野を広げてもらっているような気分にもなる。「やってやるぞ」みたいなやつ。この感覚は一昨年ぐらいから自分の中で存在を認識できるようになってきて、最近は意識的に求めるようになってきた。これこそが自己管理、セルフマネジメントなのかなあと思っている。

 しかし、改めて最近思うのは、自分の「成し遂げてなさ」である。「ゲンロン戦記」は10年やってやっと1冊なので当たり前っちゃ当たり前だけど、本当に人に語れるような、人を動かせるようなバックグラウンドが無いなあ。やっぱり思ってるだけじゃだめなんだよね。山本五十六の言葉は重い。
 それなのに、「おれが世界を変える!」「おれの発想なら世界を動かせる!」みたいにちょっと前まで息巻いてたんだなと思うと恥ずかしくなるし、そう思っていた自分自身を認めることができなかったむっつりな28年間というのが本当に勿体なく思えてくる。それでも、自分にとっては必要な時間だったのだということも今ならわかる気がするけれど。

 だから、そういった人に語れる経験を積み上げていくためにこうやってニア・トーキョーに来て、それは間違いじゃ無かったなと思えた1年間ではあった。もうすぐ1年になるんだなあ。
 4月当初に考えていたこのnoteの方向性も、今思い浮かぶそれとはだいぶ変わってきている。それがいい意味でのものだという自覚もある。けど、まだまだ経験は足りないなあ。一生かかっても足りないんだろうなとは思うけど。

 そういえば、個人的には、こういった活動をNPOでやらない理由、というのが語られていたのは勉強になった。いま自分がNPOにいる理由の一つが、最大限お金を排除したところで戦いたいという思いがあったからなのだけど、もうちょっと考えた先にこういう発想になるのかもしれないなあとは思った。
 SDGsマンとお話させていただいたときも、同じことをおっしゃっていた気がする。「2人以上が言っていればとりあえず間違いじゃない理論」を信じている自分としては、グッとその思想に寄った感じがする。ということは、いつぞや書いていたグランドデザインもまた変わっていくのかもしれない。まあ、今年1年ですでにだいぶ変わった感じはしているのだけど。

 3月になったら1年をまとめて、停滞中のこのnoteも少し変えていくことができればなあ、と思っている。変わらないかもしれないけど。


 cinema staffの「エゴ」は本当に大好きな曲で、自分の中で勝手に人生のテーマソングということにしている。自分の中にあるいろんな思想のかけらを、この曲がとても綺麗に4分12秒で束にしてくれているような気がするのである。今日書いたことも、多分そうなる。

(3552字)

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