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【短編小説】奴隷と商人

奴隷の少女ソフィアは、主人である商人のために、命の次に大切な物を魔女に差し出す。
4,565文字


  銅貨が二枚、ミルク色のチュニックが三着、昨年の夏の市で、旦那様に買ってもらった向日葵色のシュールコーと晴れた空色のシュールコーが一着ずつ。足の裏を石で切らないようにと、半年に一度、旦那様が買ってくれる牛の革でできた靴。それは、ただ足を包むだけの、装飾のない、革でできた袋だったが、履いてみると、旦那様の手で優しく足を包み込まれているような気になった。

 それだけが、ソフィアの持ち物だった。

 ソフィアは十二歳の冬に、奴隷として旦那様に買われた。

 旦那様は商人で、この国では珍しく、お金を持っているというのに、心の優しい人だった。

 旦那様は、まったく商人らしく、太っていて、背丈は今年で十六歳になるソフィアよりも低く、よく喋り、よく食べよく飲んだ。

 そして、まったく商人らしくなく、奴隷であるソフィアを一人の人間として扱った。

 首から、手から、足首から、冷たさが身体の芯まで浸みて、たちまちに心を凍らせる首輪、手枷、足枷は、買われたその日に旦那様が外した。

 奴隷でない、普通の人たちと同じような服を与えられ、フォークやスプーン、ナイフの使い方を教わり、料理も教わった。

 読み書きだって教わった。

 旦那様がソフィアに読み書きを教えた理由は、二つあった。

 旦那様が眠る時、床の横について、本を読み上げるため。

 一日の終わりに、日記を書くため。

 旦那様は言った。

 「ソフィアの声が好きなんだ。その声で、僕に物語を読んでおくれ。そうしたら、僕は幸せな気持ちで眠れるから」

 こうも言った。

 「一日の終わりに、その日の出来事を記しておくれ。私は、お前に知ってほしいんだ。人生の意味を」

 ソフィアは、旦那様の寝顔を眺めるのが好きだった。だから、旦那様が眠りについた後もしばらくは、旦那様の寝息に気づかないフリをして、物語を読み続けた。

 何度も何度も同じ物語を読んで、その一言一句をすっかり覚えてしまうと、本から目を離して、旦那様の寝顔を見つめながら、物語を語った。

 物語を語りながら、ソフィアは想像した。物語の中で、囚われた姫はソフィアで、助けに現れる騎士は旦那様。死に怯える野良猫はソフィアで、それを優しく抱き上げる少年は旦那様。想像の中でなら、旦那様に抱きしめてもらえた。旦那様を抱きしめてあげられた。

 旦那様の言いつけを守って、毎日、日記を書いている。

 ソフィアは、日記を書くのが好きだった。

 旦那様に教わった文字で、旦那様との日々を、日常の輝きを、紙の上に記すことがどれほどの幸せか、旦那様は知らない。

 しかしソフィアは、奴隷だった。

 首輪が外れても、ナイフやフォークを器用に使えても、読み書きができてさえも、それで奴隷でなくなるとは、ソフィアには思えなかった。

 奴隷として旦那様に買われて、奴隷として大切にされているのだ。と、毎日自分に言い聞かせている。希望を持ってはいけない。希望のすぐ後には、絶望がやってくる。

 旦那様がどれだけ大切にしてくれても、事実は消えない。金で買われた。それを忘れてはいけない。忘れてしまいそうになる自分が恐ろしかった。

 ソフィアは、深い森の中にいた。

 夏の昼間だというのに、夜みたいに暗い。

 神に祈る時のように両手を組み、

 「私には願い事があります。私には願い事があります」

 と、唱え続けながら歩いている。

 ソフィアの声に反応して楽しそうに歌っていた小鳥たちは、いつの間にか居なくなっていた。

 「私には願い事があります。私には願い事があります」

 いつの間にか息が白くなっていた。手足の感覚が遠のいていく。ただ、唱えながら歩いた。旦那様の幸せだけを願って。

 半日前、食料の買い出しに出かけたソフィアは、とんでもない話を耳にした。

 露店酒場の外で、あの酒飲みの肉屋が、拳闘仲間の宝石商と話していた。ソフィアが通りかかった時、肉屋が旦那様の名前を口にした。

 「聞いたか? イーサンのやつとうとう結婚を決意したようだな」

 宝石商は笑って、

 「聞いたも何も、イーサンのやつが指輪をどこで買ったと思う? うちの店で買っていったんだ」

 肉屋は驚いて、

 「お前の店でだと? 災難なこった、偽物を掴まされたわけだ」

 肉屋と宝石商は、こんなに面白いことはない。と、笑っている。

 笑いのおさまった宝石商が、肉屋の頭をはたいて言った。

 「もちろん、最初は偽物を出した。でもな、あいつもやっぱり商人だ。目利きはいいんだな。本物を出せとしつこく粘ってね。結局、八回も偽物をつっぱねてみせて、最後に本物のサファイアの指輪を迷わず買っていったよ」

 肉屋は感心したように、

 「ほう、あいつもたいしたものだな」と言って頷いている。

 しかしだな、と、宝石商は笑って続けた。

 「あいつがあんまりにも得意な顔で本物を買って帰りやがったから、俺は面白くなかった。だから、俺が拳闘で知り合った、普通に生きたきゃまず関わりたくないようなろくでもない奴らに言ったんだ、取り返してくれたら、代金の半分をやるってな」

 肉屋の顔がいやらしく歪んだ。

 「それはいいな。さぞ怖い思いをしただろうよ」

 「ああ、だいぶと粘ったらしいがな。サファイアの指輪だ、結婚だろうよ。可哀想にな。あの怪我じゃ、サファイアの指輪を買いなおすほど稼ぐことは二度とできないだろうよ」

 ソフィアは、かごを放り投げて、走りだしていた。

 ――なんてひどい奴らなのだろう。

 旦那様の結婚相手はきっと、旦那様の幼馴染の、美しいあの人だ。

 彼女は商人の家の娘で、旦那様にはピッタリの相手だった。

 彼女はソフィアのことを「ソフィー」と呼び、時々、髪飾りなんかをつけてくれた。その度に「これは似合うわね。きっと、イーサンの好みよ」なんて言って優しく微笑むのだ。

 彼女は、旦那様を幸せにしてくれるだろう。それは、自分にはできないことだ。

 それなのに、あいつらは。

 だからこうして、ソフィアは森の中を歩いているのだ。

 「私には願い事があります。私には願い事があります」

 急に、氷のように冷たい風がソフィアの頬をかすめた。あまりに冷たくて、鋭利な刃物を頬に突き立てられたのかと思うほどの冷たさだった。

 閉じていた目を開けると、濃い霧がソフィアの目の前に現れた。白く重い霧が壁のように立ちはだかる。

 いよいよだ。と、ソフィアは覚悟した。

 俯いて目を閉じ、手を組んで霧の壁に向かって歩いた。

 「私には願い事があります。私には願い事があります」

 旦那様のために、たくさんの本を読んだ。ある本の中に、森の中の魔女の話があった。その魔女はどんな願いでも叶えてくれる。そのかわり、自分の命ほど大切なものを差し出さないといけない。

 いつの間にか、ソフィアは木製の肘掛け椅子に座っていた。

 目の前のテーブルに置かれた、ろうそくの光があるだけ、首をひねってあたりを見まわしても、真っ暗でなにも見えない。

 諦めてろうそくに視線を戻すと、ソフィアは悲鳴をあげた。

 酷く顔の歪んだ老婆の顔があったからだ。

 「願い事をきいてやろうか」

 ソフィアが本で読んだとおりだった。

 「お願いします」

 魔女は目を見開いて身体をのりだした。ソフィアの目を覗き込み言った。

 「では何を差し出す。お前の命の次に大切なものでないと願いは叶えられないぞ」

 ソフィアに迷いはなかった。

 「声を、差し出します。旦那様に物語を読み聞かせてきたこの声を、差し出します」

 ほう、と魔女は頷いてから、身を引き、背もたれに身を任せた。

 「よろしい、では願い事を言いなさい。叶えてやろう」

 ソフィアの心に悲しみはなかった。旦那様が幸せになるなら、なんだってよかった。

 「旦那様の怪我をすっかり治してください」

 老婆は頷き、

 「よかろう。では……」

 まってください。と、ソフィアが遮った。

 「サファイアの指輪も、お願いします」

 魔女はまた、身を乗り出してソフィアの目を覗き込んだ。魔女の冷たい息が、ソフィアの身体にまとわりつく。

 「ひとつ失って初めて、願いはひとつ叶う。ふたつ叶えるなら、ふたつ差し出せ」

 ソフィアは、何を差し出すかとっくに決めていた。

 「私は、私の目を差し出します」

 旦那様とあの人の幸せな生活のなかで、奴隷として生きていくことを考えると、ソフィアは胸が引き裂かれる思いだった。

 ――もういい。何も見たくない。

 魔女がうなずくと、ソフィアの意識がフッと遠のいた。

 意識が戻ると、頬に土の感触がした。

 目をあけてみる。まぶたは動くのに、何も見えない。目をあけたつもりでも、真っ暗なままだった。

 ――願いは、叶ったのだろうか。

 その時、遠くから旦那様が自分を呼ぶ声がした。

 「ソフィー、ソフィー」

 旦那様の、必死な声が近づいてくる。

 足音がどんどん近づいてきて、ぶつかるほど近づいたと思った瞬間、強く抱きしめられた。

 ソフィアの頬に、水滴が伝った。

 ――旦那様、泣いておられるのですか?

 口を動かしても、声は出なかった。

 悲しみで胸がいっぱいになった。

 旦那様の腕をすり抜けると、自分が右手に何か握りしめていることに気づく。きっと、サファイアの指輪だ。

 旦那様がソフィアの肩を掴んで激しく揺すりながら言った。

 「俺は死にかけていたのに、急に身体が元通りになった。お前が森の方に向かったと聞いたから、もしや魔女のところに行ったのではないかと思ったが、まさかお前、本当に魔女と取引をしてしまうなんて。目か、目を差し出したんだな。なんてことを……」

 ――いいんです。

 また、声は出なかった。

 「ソフィー、どうした。どうして何も言ってくれないんだ」

 ソフィアは、精一杯の愛情をこめて、笑った。

 右手に握っていたものを、旦那様に差し出す。

 ――幸せになってください。

 心の中で、そう言った。

 また、旦那様に抱きしめられた。

 ソフィアの肩に顔をうずめて、子どもみたいに泣いている。

 「お前はなんて馬鹿なんだ。こんな物のために」

 ソフィアは旦那様を引きはがすと、地面に、指で字を書いた。

 ――あの人と、幸せになってください。

 ああ、と静かに言って、旦那様は黙った。

 自分の意志が通じだのだろう。旦那様が、愛する人と幸せになれたら、それでいいのだ。

 また、旦那様に抱きしめられた。

 こうやって抱きしめられるのも、今日で最後だ。

 旦那様の前から、すっかり姿を消してしまおう。

 もう、旦那様の人生に私はいてはいけないのだ。

 旦那様は抱きしめながら言った。

 「俺は、お前と結婚するために、サファイアの指輪を買いに行ったんだよ」

 旦那様はそう言ってソフィアから離れると、立ち上がって、ソフィアを置いて、森の奥に向かって歩きだした。

 旦那様の足音が、ソフィアの背中から遠ざかっていく。

 旦那様の足音が消えた。突然、氷のような冷たい風が吹いて、ソフィアを包んだ。


 とある国のはずれに、仲睦まじい夫婦が居た。

 商人の夫はよく働いた。

 妻は、声の出ない病気であったが、読み書きが得意で、美しい物語を紡いだ。

 とくに、愛する者のために、命の次に大切なものを惜しみなく差し出した女と、宝石には目もくれず、大切な人の美しい瞳を取り戻した男が結婚して結ばれる話の美しさは、歌になり、劇になり、やがてその国が滅んでも世界のどこかで語り継がれるようになった。

 

 

 

 

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