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「東村山音頭」とドリフの音楽について

東村山
庭さきゃ多摩湖
狭山 茶所 情が厚い
東村山四丁目
東村山四丁目

東村山三丁目
ちょいと ちょっくらちょいと
ちょっと来てね
一度はおいでよ三丁目 
一度はおいでよ三丁目

ワーオ
ヒガシムラヤマ イッチョメ ワーオ
イッチョメ イッチョメ ワーオ
イッチョメ イッチョメ ワーオ
ヒ・ガ・シ(ワオ)
ムラヤマ イッチョメ
ワーオ
  
─ 志村けん「東村山音頭」(1976年)
 

「東村山音頭」は、後にコントの王様と称される男の産声に相当する。レコードでは「加藤茶のはじめての僕デス」(1976年)のB面に「志村ケンの全員集合 東村山音頭」として発表された(当初の名前はカタカナだったのか)。米国風バラエティショーの演出が冒頭にあり、早々に終わると本編がはじまるのだが、本編も早々に終わるため終盤には《みんなが歌って踊る番だよ!》というフリでカラオケパートへとなだれこむ。

作曲のクレジットは市制定の「東村山音頭」と同一。正確にはマイナー調になる三丁目 (2番)はいかりや長介が、一丁目(3番)は志村けんが、どちらもほぼ即興で手がけたものだ。本人いわく一丁目は《ソウルっぽくしてみた》 とのこと。一方《志村こそラップミュージックの元祖と言っても過言ではない》とは全員集合のプロデューサー居作昌果の弁。ものは言いようだ。実のところ、日本民謡のお囃子はラップと親和性が高いのである。

クレージーキャッツが青島幸男&萩原哲晶のコンビを主軸にしたオリジナルナンバーだったのに対し、ドリフターズは民謡・お座敷唄・軍歌などドメスティックな既存曲に川口真が曲解のアレンジを施したパロディナンバーが顕著である。ジャズメンとして洗練された雰囲気のクレージーと差別化する事務所側の狙いがあったのだろう。その例にもれない「東村山音頭」は、志村が日頃からローカルネタとしてメンバーに歌い聴かせていたことが流行の発端だそうで、彼の途中加入は“音楽性”の面からみても運命的と思える。

もっとも、志村加入後のドリフは数えられる程度しかレコードを出さなかった。しかも、まだ内外に認められたばかりだった志村は「ドリフのバイのバイのバイ」(1976年)にしても「ゴー・ウエスト」(1978年)にしても録音上あまり貢献していない(「ドリフのバイのバイのバイ」の録音がほんの数年後だったら曲間のシャウトはいかりやではなく志村が担当していただろう)。

強いて挙げれば、荒井注のパートだけ志村の録りおろしに差し替えられたバージョンの「ドリフのズンドコ節」(1976年)が、黄金期ドリフの個性が均一に記録された楽曲といえるが。声域が狭い荒井が在籍した時代のオケはいつもそこだけ低く転調するので、使い古しのオケでなかったら志村はもっとひょうきんなボーカルを披露できただろうなという印象もある(甚だ贅沢な意見)。

そもそも、志村が萩本欽一といかりやのどちらに師事志願するか悩んだ末にその決断をしたのはビートルズフリークだった (ドリフが前座の来日公演も観に行っていた)志村にとって音楽の価値が大きかったからである。そういう意味では、レコードを制作する時間もなくなるほど成功したことは少々皮肉な結果ともとれなくはない。近年テレビCMの中でスカパラをバックにして津軽三味線を達者に弾く彼をみたとき、往年の5人でも音楽作品を(楽器はやらないにしろ)量産しておいてほしかったなぁと改めて思った。

前述の音源「志村ケンの全員集合 東村山音頭」は、ベストアルバム『ドリフだヨ!全員集合』の“青盤”(2000年)に収録されている。ただし喰うか喰われるかの生放送中に放たれた《イッチョメ》のほうが断然エネルギッシュなので、CDで聴くよりも某動画サイトの恩恵を受けて“観る”ほうがよいだろう。
 
ちなみに、フジテレビ「志村けんのだいじょうぶだぁ」の提供スポットのBGMは、彼の趣味が反映してかビートルズの「Birthday」(1968年)だった。たしかイントロのリフだけループさせたもので、扱い方はヒゲダンスに使用したテディ・ベンダーグラスの「Do Me」(1979年)と同様だった。ぼくが「Birthday」を聴いたのは「だいじょうぶだぁ」が先であるため、ホワイトアルバムを通じてホンモノを知ってからもしばらくは、ポール・マッカートニーの顔よりも変なおじさんの顔が脳裏に浮かんだものである。ああそうそう、ビートルズの関係は当時すでにだいじょうぶだぁではなかった。

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