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人を信じて、傷ついて

夜景を観に行こう。少しだけ会おう。うちにおいで。

こんなことを言われて、鵜呑みにするのは愚かかもしれない。実際それを鵜呑みにして、心も体も何度か傷ついた。

信用せずに断ることは、自分の身を守るため。でも、純粋に綺麗な夜景を観たい、会って話だけしたい、お家を覗くだけしてみたい。そう思って、信じて行くことは愚かと言い切れるのだろうか。私はどうしても、性善説で生きてしまう。男も女も、嘘をつかない、欲に駆られて人を騙さない人だと信じていたい。だからこそ、信じてしまう。

始めから人を信じられないなんて、なんて悲しい世界なんだろう。でも、信じた結果自分が傷ついて、トラウマになって、結局人の言葉を信じられなくなった。

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こんな紋々とした時は、映画を観たくなる。お世話になった人に勧められた、『天井桟敷の人々』。3時間超の長編映画で躊躇していたが、自己肯定感が下がりそうになっていた時に観るには現実逃避に打ってつけだと思った。

「私は好きなものだけ信じるわ」。台詞の主は、ガランスだったろうか。そんな台詞があったように思う。それを聞いて、そうか、と今は自分の中で腑に落ちた気がした。

自分の好きな人、好きなものなら信じればいい。信じたいものは信じればいい。それで砕けても、「仕方ない」と割り切れる愛があれば。

ただ、好きでないものを頭から信じないとも決めていない。プライベートの場面なら、まずは一旦自分の心に問いかけて、「これは好きではない=自分のテンションが上がらない」と思ったらやめる。これが仕事ならまずは指示通りに動いて、もしほかの方法の方が全体の利益になりそうなら”確認”を取ってみる。

どこの馬の骨かもわからない人間に着いて行った私は、人を信じ過ぎてしまったのかもしれない。

ただそれも私の選択だ。その時の私は、人を信じたくて信じた。目的論で語るなら、自分の中の性善説を証明するために、たいして知らない人を信じてみた。結果傷ついて、はたから見れば「自分を大切にしていない行動」だが、私の中では「自分を大切にした故の行動」なのだ。

性善説というある種の自分の信念を守るために、自分の身に起こるリスクへの配慮が足りない行動をとってしまったという矛盾は、まだ上手く整理ができない。ただ、前を向いていくしかないという気持ちは確かにある。体に傷はついたけれど、むしろ、そんな自分の矛盾に気づくことができてよかったとも思う。

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一旦心に問いかけて、動くかを決める。動いたらどうなるだろう。動かなかったらどうなるだろう。おそらくその先の考慮が足りなかったのだと思う。考えてはいたけれど、人を信じすぎた故に、わずかな可能性の方に身を委ねてしまった。

もうこんな矛盾に悩みたくない。自分の体を傷つけてまで、他人を信じたいとは思っていない。だからこれからは、”その選択の先”に起こる可能性の高い方を起こり得る未来と捉えて、自分のために選択をしたい。たとえそれが自分の信じたい未来でなくても。自分の嫌いな未来を選ぶよりは、より幸せになりそうな未来を選びたい。これからも幸せであるために。

だからきっと、これまでの自分の100%の性善説が揺らぐことになるかもしれない。自分が幸せに、楽しく生きていくためには、性善説よりも悲しい未来を避ける選択を優先していきたい。

そんなことを思って書き綴った、社会人2日目の夜。ポジティブシンキングで、生きていこう。


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