【短編小説】灰色の水平線を辿って
思い出すのは、いつだってちょっと切なそうな、悲しそうな、寂しそうな、けれどどこか嬉しそうな、私を見るあなたから滲んだ表情。
もしかしたらそれは幻想なのかもしれない。
けれど、ほんの少しだけ醸されたそれを、私はもう何年も忘れることができない。
心に住み着いてしまったそれは、私とあなたを繋ぐ唯一の形ある存在なのかもしれない。
中学1年生の時、入学早々私は大きな一目惚れをして、斜め後ろの席の彼のことが気になって仕方がなくなった。ひょろりと背が高く、小顔に映える爽やかな顔立ち。勉強もスポーツもできるクールな彼に、学年中の女子たちが群がった。それに顔色ひとつ変えず、マイペースに黙々と毎日を送る彼。
教室の端で周りの目ばかり気にしていた私は、誰にも気づかれないようにそっと彼の存在を意識することくらいしかできなかった。
早朝の教室、窓際の席でひとり本を読む彼。
廊下側の端っこの席でそんな彼をひっそり見る私。
休み時間、いろんな人が集まる彼の机。
仲のいい友達1人だけがこっそりと来てくれる私の机。
放課後、普段出さない大きな声を出しながらバスケットボールを弾く彼。
ネット越しに彼を意識しながら、小さい玉をラケットで追う私。
誰にもその視線を気づかれないまま3年生になり、彼とまた同じクラスになってぬか喜びをした私の毎日は、あのときと何も変わらずただ静かに過ぎて行くばかりだった。
それが変化したのは3学期が始まり、卒業が見え始めた頃。最後の席替えになろうという時に彼と同じ班になり、私たちは急に仲良くなった。それまで、名前順で座る移動教室で同じ机にいても、少人数教室で一緒に授業を受けていても、同じ体育館で部活をしていても、全く話したことがなかったのに。
彼は私のことをいつも面白がっていじってきた。彼と話すだけで、目を合わせるだけで、身体中に熱を帯びてしまう私は、いつも返事に困って言葉を詰まらせた。そんな私を見て、また彼は楽しそうに少し意地悪な言葉を私に向ける。
きっと、からかわれているだけだ。
友達にいい感じだね、なんて言われていたけれど、いらない傷を作りたくないからとそう言い聞かせ続けた。ずっとずっと舞い上がっていた心を気づかれまいと、どうにか抑え続けていた。
今がこのままずっと続けばいいのに。
ずっと、終わらないでほしい。
そんな想いは虚しく、中学最後の日となった。
最後の校門をくぐる時は、女子に囲まれる彼を横目で見ることが精一杯だった。近づきたくても足がすくんでどうにもできない。なんとなく彼も私のことを見ている気がしたけれど、私にはそれを確かめる勇気なんてなかった。
何か言いたげな、どこか寂しげな、そんな表情をしているような…。
けれど、そんなの気のせいだとそのまま門をくぐって彼との片思いも卒業しようと決めた。
私たちはあっけなく別々の道を歩くことになった。
それから2年が経ち、高校3年になって少しした頃のこと。
部活も引退間近の初夏の日、通学中の道端で遠くに彼を見かけたような気がした。心の奥底で蓋をしていた想いが、一気に溢れ出してくるのを感じた。そして、それを止めることはもうできないのだと、私はどこかでわかっていた。
7月。
一枚の手紙を握りしめ、私は町の大きな体育館へ向かった。
熱気に包まれた会場では、ちょうど彼の学校の試合が間も無く終わろうとしていた。廊下でひとり、試合が終わるのを待つ。心臓は飛び出そうで、手は震えて、口はカラカラで、足元はぐらぐらと揺れていた。
どのくらい待っただろう。
気づいたらぞろぞろと試合終わりの部員の集団が私の前を通り始めた。その集団から少し距離を置いて、ひとりとぼとぼと大きなシューズを持って歩いてきてた人がいる。歩き方だけでわかった。あの頃から随分と背が伸びた、彼だった。
私に気づいた彼は、驚いたような、少し困惑したような、でも嬉しそうな表情で、「おぉ」と言った。あの時と何も変わらない、低くておっとりとした落ち着いた声だった。
そこから私たちは連絡を取り合うようになった。
お互いの実家を行き来したり、同じ塾に通ったり。少し成長した肌寒い季節に、またぬるく歪んだ時間を紡ぎ合った。
彼の彼女のことは見て見ないふりをし続けた。彼の周りにいる女の子たちのことは、心と折り合いをつけ続けた。
幸せだけど、しんどくて、よくわからなくて。
そんな私を見る彼も、いつもの悪戯な言葉や表情はどこにも見当たらないほど、どこか苦しそうで、悲しそうで、切なそうだった。それでも臆病な私は、これをはっきりと確かめることはできなかった。
大学生になっても私たちは同じように一緒にいた。
彼の部活が休みの日には一緒にバスケを見に行ったり、たまにご飯や買い物に行ったり。私のバイト先にもよくきてくれたりもした。
初めて花火を2人で見に行った時は、
「今日だけやからな」
と思いっきり照れ隠しの一言を添えて、初めて手を繋いでくれた。緊張を共有しながらぎこちなく歩き、私の家の前で初めて手をほどいた。
一度だけ彼の下宿先に泊まった時は、初めて彼の日常を肌で感じた。
整えられた部屋に、第一ボタンまできちんと留めて干されたYシャツ。小さな炊飯器でご飯を炊いてカレーも作ってくれた。
どこかの世界に来てしまったような現実に私の心は止まらなかった。
「一緒のベッドで寝たい」
そう言う私に、彼は見せたこともないような悲しい顔をした。
隠しきれていないその表情で、
「そんなやつじゃなかったやん…」
と彼は寂しい目で呟いた。
それに気づいていたはずなのに、
「私の何を知ってるん?」
なんて言葉を投げつけてしまった。
数時間前まで幸せだったのが嘘のように、私たちは疼く心に支配されて朝を迎えたのだった。
私たちは少し大人になった気がしていたけれど、そんなことがあってもお互いの気持ちを確かめ合おうとはしなかったし、そのまま何も変わらない2人でいた。
時には彼女の話もしたし、私が悩んでいるといつも彼は突然の長電話に付き合ってくれる。
「おまえは見る目ないなぁ」
と、少し嬉しそうな、困ったような、寂しいような、切ないような、そんな気持ちをうっすらと電話越しに感じながら、私も同じような気持ちになって心がまた疼く。
現実をぎこちなく超えながら、私たちは2人の世界をどうにか保ち続けた。今を壊す勇気が持てず、関係に名前をつけることができず、お互いにその曖昧なものにすがり続けた。
少し大人になった私たちだけど、やっぱり心は臆病なままだった。
こんな日々が重なり、彼のことを忘れるということはもうできないし、関係をはっきりさせたいと思っても簡単にはっきりさせられないことも悟った。忘れることも、はっきりさせることもできないのに、終わってしまう恐怖に打ち勝つことができない。
そんな生ぬるくぼやけた世界を過ごしてきた私たちの日々は、10年もの歳月となって重く心に刻まれていた。ゆらゆらと揺れる灰色の関係にまだ心が落ち着かないまま、私たちは社会人になり、そしていつしか会わなくなっていた。
けれど、それでも想いはなかなか消えることはなかった。
地元へ帰ってきては思い出が鮮明に蘇り、SNSに足跡がついただけで嬉しくなり、たまに夢に出てきてはまた心がかき乱される。ばったり会わないかなぁなんて考えながらも、なんとなく連絡を取ることさえできない遠くを馳せる日々を過ごした。過去と現実の狭間で湧き上がる不毛なその気持ちをいつもひた隠し、ただ毎日に没頭していた。
そんな見え隠れする想いも馴染んできた頃、ちょうど引っ越しを控えていた私は、新しい自宅からすぐのところに彼の職場があることを知ってしまった。
あれから10年が経とうとしていた時のことだった。
頭の中はまた彼のことでいっぱいになって、どう足掻いても消し去ることはできなくなった。結婚をして子供までいる今、もう前のような望みはないにせよ、どうしようもない気持ちが存在することも事実だと認めるしかなかった。この気持ちにどう折り合いをつけていいのかわからない中でも、全てを守りたいということだけははっきりとわかっていた。
それからしばらくした真夏の夕暮れ時。
SNSの通知が鳴った。
メッセージは彼からだった。
実に、10年ぶりの連絡だった。
一気に心は跳ね上がり、早く強く鼓動が刻まれた。それを止めることなんて、できなかった。
私たちはまた、灰色の世界に足を踏み入れてしまった。
けれど、お互いに守るものがある今、私たちの臆病な心はさらに臆病なものになっていた。あの頃と何ら変わりのないやりとりに少し安心しつつも、またもやもやとしたあの気持ちが鮮明に蘇る。
そして、それと同時に必ず現れる彼の嬉しいような、寂しいような、困ったような、悲しいような、切ないような、そんなのが滲むのを電子画面に光る短い文面から感じる。
だからこそ、余計に想いが募ってしまう。
私たちはこの感情と臆病な心と一緒に、それからまた何年も同じ時を一緒に過ごした。
付かず、離れず、曖昧で灰色な世界を、ずっとずっと2人でぎこちなく泳いでいる。
いつしか心地良ささえ感じるほど、私たちは私たちのこの関係に安堵していた。
そして、この"果てしなく続く生ぬるい関係"という関係がとうの昔から始まっていたのだと認め合えた頃には、もう60を過ぎていた。恐る恐る共に時を重ね合ってきた今、もうお互いにそのままでいいのだとようやく素直に手を取り合うことができるようになった。
60を過ぎた初老が、心は中学生のまま手と手を重ね合っている。けれど、もう臆病なそれは今の私たちの中にはいない。
これからも、2人だけのずっと続く灰色の世界を握りしめて。
そして、これからは本物の笑顔だけを映し合う関係を絡め合って。
******
after word
ずっと描きたかった世界をようやく形にすることができました。
こうして形にすることが何かの終わりになるのかもしれないと、またあの臆病者が顔を覗かせ、何度も書き始めることを妨げていました。
何故だか今このタイミングで書くことができ、恐れていた現実は半分当たっていて半分当たっていなかったことを知りました。
そんな、今の気持ちです。
主題歌は、物語が書き上がる頃にふっと浮かんだスピッツの「夢じゃない」。ふっと浮かんだだけなのですが、歌詞がリンクし過ぎていて少し震えました。
スピッツは物心がついた時からすぐそばで鳴っていた存在でした。その中でもこの曲は、小学生の頃に見ていたドラマ「ふたり」の主題歌で、とても印象に残っている曲でした。(そんな頃に見ていたドラマを覚えているのはこのドラマだけな気がします。なんかとっても切なくなっていたのを鮮明に覚えていて、それから奥菜恵さんが大好きになりました。笑)
あとスピッツといえば、中3の冬に音楽の授業で歌ったなぁというのも結構私の中ではホットで。あのかっこいい彼がスピッツのチェリーを歌っている…尊い…と、ずっと見ていたのを覚えています。笑
そんなのもあって、主題歌はスピッツを選びました。
そして実は私の中で挿入歌も設定しています。
同じくふっと降ってきたGOMES THE HITMANの「手と手、影と影」です。
この曲は20年ほど前のジャックスカードのCMソングで、当時から今の今までずっと大切に聴いている曲です。何とそのCMにはデビュー当時の田中圭さんがでてるんです。タナカーの私、そんな時から見つけてるのすごいよね?笑
曲の話に戻りますが、軽やかなノスタルジーを奏でるメロディーに、どこかぬるさを感じる声。少しこの物語は重たい空気を含んで進んでいるようにも見えますが、この曲のテンポの良さや軽やかさがこの2人にはぴったりな感じ。
そして、ずっと好きな曲なのに歌詞の意味を考えたことなくて、この物語にマッチさせたいと思って改めて見てみると、また絶妙にリンクしている…!
この歌詞、まさに彼の心情な気がしています。私以上に想いを口にしない彼。"誰かしら誰か傷つけてゆくのなら僕は黙っているよ"は、彼の象徴とも言えます。
全体を通しては叶わない(終わってしまったであろう)恋の歌なのだと思いますが、この物語も60歳ごろまではずっとお互いに何かが叶っていなくて、ずっとずっと手と手がほどけて二つの影が立ち尽くしているような状態。まさに、2人で一つしか叶わない願い事を、ずっと心の中で思い思いに祈り合っていたのだと思います。たとえそれが同じ思いだとしても、心の中でしか唱えられない祈りは別々の思いとして交差してしまうもの。外側で形にしないという歪んだ共通の思いだけが、なんとも言えない悲しさを滲ませながら2人を繋ぐリアルなモノになってしまったのです。
決してお互いの気持ちを伝え合わなかった2人。この物語には、恋や愛、好きなどというフレーズはひとつも出てきていません。それらを超越した2人の物語なのです。
_._._._
大きな大きな何かを抱え、時を重ねれば重ねるほどその大きさが恐ろしくなり、もう後戻りもできなくなってしまったふたり。
終わりが怖くて、いつまでも始まらないふたり。
平行線をただただふたりでゆらゆらと泳ぎ続け、流されかけたら手を繋ぎ、近づき過ぎたら溺れないようにまた離れ、ふたりの世界のバランスをとり続ける。
底にある臆病な心の渦が生む悲しくて苦しい感情を滲ませながら、歪んだ愛情が見え隠れするたびにふたりは安心し、そして同時に怖くなる。
一体何がふたりをそこまでにさせているのかはわからない。
けれど、ふたりはふたりだけの繊細な感覚で、どこまでも続く水平線を共に泳ぎ続けられるよう、ぎこちなく一緒にいたのでしょう。
シワとシミが増えた手を重ね、笑い合いながらそんな会話をする日々を想って。
2022.9.14 haname
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