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スローライフをエンジョイできない

たしかあれは2年前のこの時期。
初めてコーチングというものを受けた。
もともと知っていたSNSで人気の方がコーチになった、ということで受けさせていただいた。その方をリスペクトしていたのもあって、なんだか随分と背伸びした会話をした記憶だけが残っている。そしてその会話の中で唯一覚えているのが、「どこか海のきれいな田舎町でスローライフがしたい」だった。

ふと思う。
なぜみんな「仕事」にそれほど躍起になっているのだろうと。食べていくため、誰かを幸せにするため、生きがいを得るため、純粋に楽しいから?つまるところは、生きる上で必要だと感じてやっているのだろうが、躍起になる必要はあるのだろうか。
いやいや、ぼくわたしは仕事より趣味を楽しんでいて、そのために仕事頑張ってます。みたいな人もいると思うけれど、大抵の人は仕事に人生支配されていると感じてしまう。
「躍起」とは、辞書的にいうと「必死になる、ムキになる」というニュアンスだが、わたしはそれに焦点当てすぎて縛られているようなイメージを抱いている。仕事嫌だなぁと日常的に感じている人も、自分らしく働くって何だ?を追求し続けている人も、四六時中「仕事」に焦点が当たっているんじゃないだろうか。
しごとってそんなに大切なんだろうか?


わたしはちょっと将来について考えないとダメな中学生くらいからまさにその状態であったように思う。進学って、将来ちゃんと社会人になって立派に勤めることがゴールで、そのために学校生活を頑張らなきゃダメ、そんな風に捉えていた。そして、躍起になっていた。
ただ、未来までのレールも、その先も、いつだって全くピンと来ていなかった。ピンとこなきゃいけないからわたしはピンと来ているはずだと自作自演で自分を誤魔化していたように思う。

そんなわたしだもの、仕事に躍起になっていない状態、つまりは「スローライフがしたい」はおそらく本望なのだ。
そんな自分を何となく受け入れられなくて今でもまだ躍起になってしまうことがある。もういいじゃんって思うのに、頭の中を占領され、焦点が当たってしまう。純粋無垢な時期に何年もかけて教育されたことだからそう簡単には抜けないのだろう。

とはいえ、今のわたしは半分くらいその本望を叶えることができている。ゆるくゆるく、本当にゆるく働きながら、残りの時間何すっかなぁ、と過ごしている。その「何」の解像度を上げてそれに浸っている状態、つまりスローライフを謳歌することが残り半分。
謳歌するには十分過ぎるほど時間がある。大学生のころよりあるかもしれない。お金もその時よりあるな。何でもできるじゃないか!
という状態なのに、謳歌できていないのである。好きなことすりゃいいのに、まだ仕事しなきゃ!になるわたしはどれだけまじめなのだろうか。

完全に受け入れたらどれだけ楽だろうと思う。わたしは仕事にピンとこない人種である。好きなことを好きなだけやって、そこからいつか価値が循環していき、結果お金やありがとうが巡ってくる。その流れが一番しっくりくる人種なのである。と。

というか、本来みんなそうで良くない?とすら思っている。今、頭いい人たちが一生懸命あらゆることの自動化を進めてくれているのはそのためで、誰が好んでやりたいねんっていう膨大な単純作業的なものから今やチェーン店の接客まで自動化されている。ロボットが、人間が好き好んでやりたがらないことを全部やってくれる時代なのだ。それを恐ろしい、仕事なくなる!と考えられがちではあるけど、いやむしろ最高で、全員好きなことだけしてその先に価値循環がある世界が来るんだよ?というか、今あくせく働いてるのってそのためなんだけど、気づいてる?とちょっと偉そうに言いたい気分である。

みんなが仕組みを整えてくれている中、わたしは人より少し先に歯車からおり、未来のための前例を身をもって作るのがこの世の役割だ。引き寄せられるように自然とこのポジションについたのに、まだ周りをキョロキョロ見てみんなと同じに憧れているのだ。
スローライフの権利を自ら獲得したのに、もう戻る必要なんてないのに。もう少し進んだら、仲間が案外たくさんいるのに。

さぁ、選ばれし社会不適合者という名のスローライフ民よ。思う存分好きなことをして生きるのだ。それがあなたの使命なのだから、未来の希望なのだから、安心して、さぁ!

そんなこと言われても…とまだビビってしまうけど、寂しくて吠えてしまうけど、ひとまずここにその軌跡を残し、次歯車から降りた人のヒカリになれたらなと思う。

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