私の日 #短編小説
「私の日……?」
莉子はリビングの壁に掛けられたカレンダーを見ながら呟いた。
8月25日に大きく赤い丸がしており、大きな字で《私の日》と書かれている。莉子が叔母の柊子のマンションに来てからすでに3週間が経つ。来たばかりのとき、カレンダーにこんなことが書かれてあっただろうか。そう首をかしげていると、柊子が頭をバスタオルで拭きながら、風呂から上がってきた。
「莉子も早く入っちゃいなよー」
柊子はそう言うと、冷蔵庫からチューハイを取り出す。
「また飲むの?」
莉子が驚く。夕飯のときに500mlのロング缶を2本、飲んでいたのを見ていたからだ。柊子はフフン、と楽しそうに笑い、
「りーは、口うるさいところが、お母さんそっくりだねー」
そう言って、プシュッと缶を開けた。
柊子は莉子のことを《りー》と呼んでいる。これは昔からだ。莉子は、痛いところを突かれた気がして、思わずムッとした。
莉子は夏休みに入った直後、母親の桃子と大喧嘩をした。
莉子は友達同士で、地方に転校した友達の家に、泊りがけで遊びに行こうという計画を立てていたのだが、
「中学生だけで、行くなんて危ないからダメ!」
そう言って桃子が許さなかったのだ。
それがきっかけで莉子の反抗期が大爆発。とうとう桃子の手に負えなくなり、夏休みの間だけ、柊子が預かることになったのである。
「ねぇ、おばちゃん、この『私の日』ってなに?」
莉子が仕返しとばかりに「おばちゃん」と言うと、柊子は鼻の穴を膨らませた。
「だから! おばちゃんはやめろってーの!」
普段、莉子は柊子のことを《柊ちゃん》と呼んでいる。
「私の日って、書いてあるけど、柊ちゃん誕生日12月でしょう?」
「そう、12月25日。クリスマスと一緒にされて、誕生日をきちんと祝ってもらったことなくてさ。だから毎月25日を自分で『私の日』と制定して毎月お祝いしてんの」
「一人で?」
「うるさい」
柊子はバツイチである。子供はいない。東京からこの地方都市に越してきたのは、誰もいないこの場所で心機一転、やり直したいと思ったかららしい。
「何かあれみたいだねぇ、お母さんが死んだおじいちゃんに毎月お供えしてるやつ。何だっけ? あっ、月命日だ!」
「ちょっと、人のこと勝手に殺さないでよ! あんたって子は、世話になっておきながら、これだもんねぇー」
莉子と柊子は、今は毎日こんな感じで暮らしているが、最初は大変だった。
莉子がやってきた日、柊子は1枚の紙を莉子に渡した。そこには、ゴミ出し、掃除、洗濯、料理、買い出し。ありとあらゆる家事が分担化され、表になっていたのだ。
「うちで暮らすからには、りーはこの家の戦力だよ。お客さんじゃない。甘やかさないから、ちゃんとやってね」
柊子は言い放った。
今まで両親がやっていた排水溝や生ごみの処理もしなければならない。ぬめぬめした感触に思わず顔が歪む。これなら文句を言われてでも親と一緒にいた方が楽だったんじゃないか。そう思うこともあった。
だが、そんな生活に慣れてくると、進路や勉強、友達付き合いに口を出さない柊子との生活を、快適だと思うようになった。何でもキッチリしたがる桃子よりも、ずぼらな柊子と一緒にいる方が、反抗期の莉子にとっては気楽だった。
同じ姉妹でも、桃子と柊子はかなり性格が違う。
桃子は下戸だが、柊子はお酒をバカすか飲む。食事も適当。桃子は何でも手作りで、レトルトを使うときは申し訳なさそうにそれを食卓に並べていたが、柊子は、面倒くさくなったら、すぐに宅配ピザを注文したし、夕飯がカップ麺やレトルトカレーということも珍しくなかった。
最初はそんなジャンキーな生活が新鮮だったが、そのうち、きちんと食べなければと、莉子はすすんで野菜を買うようになった。そういうところが母・桃子に似ている。莉子は、そんな自分に苛立ちを感じた。
「今月の『私の日』は何をするの?」
莉子が訊くと、柊子はニヤリと笑った。
「毎月一緒だよ。でっかいハンバーガーにフライドポテトを山盛り買って、ビールとコーラを飲みまくるの」
本当にあの母親の妹なのだろうか。莉子の視線が天を仰いだ。
そのとき、莉子は思いついた。
柊子の《私の日》を、手作りの料理で祝ってあげよう。
それから莉子は、スマホで自分でも作れそうなご馳走レシピを検索し、柊子の《私の日》の準備をした。
メニューはオムライスにキュウリとトマトのサラダ。コンソメを使った玉ねぎのスープ。
そして《私の日》当日、部屋でリモートワークを終えた柊子に、そのご馳走を披露したのである。
「じゃーん!」
「何これ?」
食卓を見て、柊子は目を丸くした。
「柊ちゃんの『私の日』のお祝い!」
明るく言う莉子に、柊子は顔を曇らせた。
「なに、余計なことしてんの?」
今度は莉子の方が目を丸くした。
わーすごい! 美味しそう! ありがとう!
そんな喜ぶ声を聞けると思い込んでいたからだ。
「言ったよね?『私の日』はハンバーガーにポテトにコーラにビールだって。これは莉子一人で食べなよ。私、マック行ってくるから」
「え! 嘘でしょ! お母さんだったら喜んで食べてくれるのに 」
「はあ? だって私、りーのお母さんじゃないもん」
「そんな、酷い。 食べてくれないんだったら、私、もううちに帰る!」
「帰るのは別にいいけど、明日にしなさいよ。もう遅いんだから」
そう言われ、莉子は寝室に閉じこもった。柊子に対する悪態がわらわらと沸き上がる中、莉子のまぶたの裏には、母親の笑顔ばかりが浮かんでいた。
やっぱりお母さんがいい。
明日帰ろう。何があっても明日、お母さんのところに帰ろう。
そう思っているうちに、莉子は長時間キッチンに立って疲れたのか、そのまま朝までぐっすり眠ってしまった。
「莉子」
優しく肩を叩かれて目が覚めると、そこには母親の桃子がいた。
「お母さん……」
お母さんなんていなくたっていい。柊ちゃんがいればそれで充分楽しい。
そう思っていたが、いざ母親を目の前にすると、気持ちが緩んだ。じわっと、目尻に涙がたまる。そんな莉子の顔を見て、先に桃子の目から涙がこぼれた。
「うちに帰ろう」
帰り支度をして、リビングに行くと、柊子の姿はなかった。桃子の話によると、この日は出勤日だそうだ。一人暮らしの柊子は万が一のために、桃子に合い鍵を預けているらしい。その鍵で戸締りをし、莉子は柊子の部屋を出た。
車に乗り込み、莉子は助手席に座る。
高速に乗ってしばらくすると、桃子の方から莉子に話しかけてきた。
「柊子、オムライス美味しかったって」
「え?」
莉子は思わず、桃子を見る。
「柊子から家事を分担してるって聞いたとき、お母さん、莉子が音を上げてすぐ帰ってくると思ってた。でも、きちんとやってるみたいだし、なんだか楽しそうで、私なんていなくても莉子は大丈夫なんだって思って、段々、お母さんの方がしんどくなってきちゃった」
桃子が洟をすすった。
「そしたら柊子が『26日の朝に迎えに来て。それまでに莉子が帰りたくなるようにするから』って言って 。黙っているように言われたけど、お母さんだって、柊子を悪者のままにしておきたくないもん。だから、話すことにした。お母さんのせいで、柊子と喧嘩させちゃってごめんね」
莉子は首を振る。
「柊子、サラダも、スープも、美味しかったって。二人前全部食べたって」
食べてくれたんだ。
そう思い、莉子は目に涙を溜めながらも笑顔になる。
「二人分食べるなんて あの子、昔から大食いなのよね」
洟をすすりながら、桃子は笑う。それにつられて莉子も笑った。
「ねぇ、莉子。サービスエリアでソフトクリームでも食べようか。お母さん、何だか甘いもの食べたくなっちゃった」
「うん」
サービスエリアに到着し、車を降りると、桃子が少し照れくさそうに言った。
「ねぇ、莉子……今度、お母さんにもオムライス、作ってくれる?」
莉子は笑顔で、うん、と頷いた。
お読み頂き、本当に有難うございました!