かぐや姫ごっこ #短編小説
「月の耳……とか言ってたかな? 確かそんな名前だった」
夜になって突然部屋にやってきた彼が、「これ、何?」と訊いてきたので、私は、曖昧な記憶を頼りにそう答えた。
テーブルの上に置かれた、小さな鉢植え。
ウサギの耳に似た肉厚の葉は、ふわふわと起毛している。
「これって多肉植物ってやつだよな」
彼が独り言を言いながら、スマホで文字を打っている。
きっと《多肉植物 月の耳》そんな検索ワードを入力しているのだろう。彼は気になることがあると、すぐスマホで調べるくせがある。
「あれ? 違うじゃん。月の耳じゃないよ。これ、月兎耳っていうみたいだよ」
どれどれと覗き込む。本当だ。私の記憶違いだったらしい。
「どっちも大して変わらないよ。月の耳って言われたら、大抵の人は、お餅をついてるウサギの耳を連想するもんだよ。一緒、一緒」
そう言い返すと、彼は苦笑した。
「相変わらず適当だなぁ。そんなんで教師やってて大丈夫か?」
私が適当な人間だから、こんな都合のいい付き合いが続いているのに、この人にはそれがわからないらしい。それに、少しくらい適当でないと、教師なんて追い詰められる一方だ。自分だって同じ教師なのだから、そのくらいわかるだろうに。
「で? これ、誰からもらったの?」
端から私が買ったものだと思っていないらしい。私は、仕返しするような気持ちで、
「男からもらった」
なんて言ってみる。
「え?」
軽く動揺した彼の様子に、私はかりそめの満足感を覚えた。
◇◇
「先生、好きです! 僕と付き合って下さい!」
教師と生徒。15歳の年齢差。
そんな壁をもろともせず、石岡君から想いを打ち明けられ、私は年甲斐もなく狼狽えた。
瞬時に頭を過ぎった言葉は「無理無理無理!」だったが、そんな断り方をしたら、きっと傷つけてしまうだろう。だからといって「私、彼氏がいるの。不倫だけどね」なんて正直に答えられるはずもない。
どうしたものかと窓の外に目をやると、青空に月が浮かんでいた。雲のように白い月の表面には、うっすらとウサギの形が見てとれる。
「あの月にいるウサギを捕まえてくれたら、考えてもいいわよ」
「え?」
「ほら、月には餅つきをするウサギがいるでしょう? あのウサギをここに連れてきてほしいの。できないなら、私のことは諦めてちょうだい」
無理難題を突き付けて求愛を断るなんて、まるでかぐや姫みたいだ。
石岡君は顔をしかめて
「わかりました」
と言った。こちらの真意が伝わったようで何よりだ。ホッと胸を撫で下ろしていると、
「必ず月のウサギを連れてきます!」
そう言って、教室を飛び出して行った。
それから数日が経った今日の朝、私は石岡君に呼び止められた。
「先生、月のウサギ、捕まえました。放課後、僕に時間をください」
どうやって捕まえたのだろう。まさか教室で、ウサギでも飛び回っているんじゃないか。そう思って教室を見回したが、それらしい生き物はいなかった。
放課後、三者面談スタイルで机を向かい合わせた。目の前に座る石岡君が緊張した面持ちで、スクールバッグに手を入れる。
「これが約束の、月のウサギです」
出てきたのはウサギではなく、小さな鉢植えだった。私は机の上に置かれた植物をじっと見つめる。
「うん。確かに、ウサギの耳みたいだね」
私がそう言うと、石岡君が、シュートを決めたサッカー選手のように、ガッツポーズをして立ち上がった。
「やった! じゃあ、僕と付き合ってくれますね!」
待て待て、どうしてそうなる。
「石岡君、座って」
「はい」
クリクリした目がこちらを見る。その面差しは、まだまだ子供だ。
「これは、月のウサギじゃないよね。植物だよね」
私が言うと、
「でも、漢字で月の兎の耳って書いて『ツキトジ』っていう植物なんですよ。名前からして、もうこれは月のウサギじゃないですか」
石岡君が食い下がる。
月兎耳。
そんな名前の植物があるなんて、今まで知らなかった。どうにかして月のウサギを連れてこようと、頭を悩ませていたことが伝わってくる。
私はごまかさずに、彼の気持ちに応えようと背筋を伸ばす。
「教師という職業に就いている以上、生徒と恋愛はできないの。ごめんなさい」
そう簡潔に伝えた。
さっきのガッツポーズが嘘みたいに、石岡君がしょんぼり肩を落とす。
「だから、これは持って帰ってね」
鉢植えを石岡君に返すと、
「せめて、せめてこれだけは受け取ってください!」
勢いよく突き返された。
「これ、母ちゃんの肩叩いたり、父ちゃんの足をマッサージしてもらった小遣いで買ったんです。先生にあげたいと思って……。だから、先生に持っていてほしいんです」
中学生男子の純情に、うっかり胸を打たれそうになってしまった。
「……じゃあ、僕帰ります」
石岡君は寂し気に笑う。教室をドアに手をかけた少年の背中に、
「また明日ね」
声を掛ける。
「はい」
変声期のかすれた音が、私の耳に心地よく響いた。
◇◇
「石岡のやつ、年上が好きなのか」
彼が、さも楽しそうにケタケタと笑っている。空っぽな笑い声。私は彼に、石岡君の話をしてしまったことを後悔した。
彼は今年度から、別の学校に移動になった。年度末に、転勤になるという話をされたとき、これでやっと、この人から離れられる。そう思った。でも実際は、何も変わらなかった。彼はいつものように急にやって来ては、浅ましい欲を満足させて帰っていく。それを拒めないでいる私は、石岡君の真っ直ぐな気持ちに、ふさわしくないダメ女だ。
「こんな鉢植えでごまかすなんて、石岡もまだまだ甘いなぁ」
優越感をたっぷりの顔でニヤけながら、彼が私に覆いかぶさる。嗅ぎ慣れた匂いが鼻を突いたそのとき、私は強烈に《かぐや姫みたいになりたい》という思いに駆られた。男たちに求愛されても、それを拒み、ひらりとかわしたかぐや姫。私も彼女のように、強くなりたい。
「ぐわっ! だっ! うぬぐぅぅぅ!」
気がつくと、私の右足が彼の急所にめり込んでいた。揚げ油が跳ねるように、彼が私から離れる。こう見えて、私は元柔道部だ。寝技をひっくり返すことなど訳もない。
「帰って! 今すぐ帰らないと、あなたとのこと、全部奥さんにバラすからね!」
彼は急所を片手で押さえつつ、もう片方の手で荷物を抱え、呻き声あげながら、よろよろと部屋を出ていった。
「二度と来ないで!」
私は追い打ちをかけるように言い放つと、バタンとドアを閉め、ガチャリと鍵をかけた。
彼の欲望が、まだ部屋の中に漂っているようで気持ち悪い。
空気を入れ替えようと窓を開けると、夜空に浮かぶ月のウサギが「ふふふ」と私に微笑みかけた。
お読み頂き、本当に有難うございました!