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最期の晩餐は梅酒をひとさじ

 最期の晩餐に何を食べたいか。
 戯れにそんなことを考えるときがある。私は食いしん坊なので、何でも食べられるなら、テーブルいっぱいにご馳走を並べてほしい。もちろんお酒も、日本酒、ワイン、焼酎、ビール、いろいろな種類を揃えてもらいたい。

 そんなことを考えていると、王様にでもなったような気がしてくる。それだけ今の私は、食べたい物や飲みたい物があるということだ。しかし、本当に最期の晩餐を迎えたとき、肉を喰らい酒を飲むなんて、できないかもしれない。実際は望むものを食べられずに、死を迎えることの方が多いように思う。

 昨年亡くなった私の祖母が最期に食べた物は、カレーうどんとたけのこご飯だった。食べるのが大好きな人だったが、祖母は生前、カレーをあまり好まなかった。それなのに、最期はカレーうどんを食べて死んでいったのだ。

 もし、あの食事が最期だとわかっていたら、祖母は何を食べたいと言っただろうか。 寿司、天ぷら、刺身…祖母の好物が頭に浮かんでくる。

 夏目漱石は、ほぼ昏睡状態におちいっていたとき、ほんのひととき目を覚まし、
「何か食ってみたい」
 と言ったそうだ。赤ワインをひとさじ、唇の隙間に流し込んでもらうと、
「うまい」
 とつぶやき、目を閉じた。

 最期に何か口にしたいという願いは、そういったひとさじに託されるものなのかもしれない。だとしたら、そのひとさじは何が良いだろう。日本酒、ワイン、ビール、緑茶、コーヒー、ジュース。中には、大好きなラーメン屋のスープ! なんていう人もいるかもしれない。

 私はふと、もし唇の隙間にひとさじ、何か流し込んでもらえるなら、梅酒が良いなぁと思った。

 甘酸っぱくて、香りがあって、芳醇で、爽やか。

 身体を通り抜ける梅酒の鮮烈な甘みが、自分の意識のにごりを一掃させ、澄み切った気持ちで、あの世へ逝けそうな気がする。

 だからというわけではないが、私は今年の6月に、2種類の梅酒を漬けた。
 青梅はホワイトリカーときび砂糖、南高梅はブランデーときび砂糖で仕込んだ。本当は氷砂糖が良いのだが、ラッキョ漬けのために用意したきび砂糖が大量に余ってしまったので、きび砂糖を使った。
 氷砂糖と比べ、普通の砂糖は溶けやすい。糖度が一気に上がると、梅の風味が出にくくなってしまうので、600グラムのきび砂糖を、200グラムずつ、溶けたら入れるを繰り返しながら、3回に分けて入れた。600グラムだと市販の梅酒よりも、さっぱりとした甘みになるらしい。しかし途中で、やはり梅酒は、もう少し甘い方が美味しいかもしれないと思い直し、更に200グラム砂糖を足した。

仕込んですぐの梅酒
(砂糖が200グラム入った状態)
800グラムの砂糖を、
1週間おきに200グラムずつ入れていった。


 梅酒の仕込みをしていたときは、梅雨の真っ只中だった。梅のヘタを竹串で取りながら、生の梅は、こんなに芳醇で爽やかな香りがするものなのかと驚かされた。徐々に蒸し暑さが増していく気配の中で、梅の実の芳香が、そんな梅雨の気怠さを、ふわりと包み込んで消してくれたように感じた。
 梅酒の作り方に《美味しくなるまで1年待ちましょう》と記載があるのを見て、1年も待てないなぁと、少し焦れた気持ちになったが、気がつけばもう、半分の時間が過ぎたのだ。

 齢四よわい十を過ぎてからというもの、まるで嘘みたいに時間が過ぎていく。1年という時間が、年々、早回しになっていくようだ。惜しんでも惜しんでも、その流れを止めることはできない。どうあがいても、すぐ次の時間がやってきてしまう。

 しかし、琥珀色に熟成しはじめた梅酒を眺めていると、時間が過ぎるのも悪くないと、ほんの少し強がりを言えるような気がする。時間が過ぎれば、その分だけ、この梅酒が美味しくなると思うからだ。

半年経過した梅酒


 時間の速さに圧倒され、焦り出す私の心を、半年の時を含んだ梅酒の色が、そっとなだめる。あらゆる時間の中で、何を感じていようとも、どこか一つだけでも腐らぬ思いを持ち続けていれば、きっと自分の中にも、熟していくものがあるだろう。ならば最期の晩餐のその日まで、私は過ぎ去る時を惜しむことなく、今をとことん感じて生きていきたい。瓶の中で揺れる梅の実をじっと眺めながら、私は、そんなことを思った。


お読み頂き、本当に有難うございました!