「あの花は何ですか」
今の時期、道を歩いていると、明るい色の花木を目にすることがある。花木というと、どうも日本人は春に咲く桜をチヤホヤしがちだが、夏に咲く花木も、強い日差しの下で鮮烈に映っていいものだ。
その花木の幹を見ると、白っぽくて、つるりとしている。ごつごつした節が少なく、あまり木登りには向かなそうだ。
表面があまりにつるりとしているので、猿もこの木を登れない、という意味から「さるすべり」という名前になったという説もある。
さるすべりは、漢字で書くと百日紅。
紅という字が含まれていることからわかるように、その花は日差しの加減で、目が覚めるような紅色に見える。
ただこの百日紅、紅色だけではなく、白、ピンク、紫色の花もある。
よく通る道の街路樹が百日紅なので、今年も、たくさんの百日紅を目にした。
私は百日紅を見かけると、ある「おじさん」の顔が浮かんでくる。
どこのおじさん?
そう思われてしまうだろうが、私が親しみを込めておじさんと呼ぶ人は、この人しかいない。
千駄ヶ谷の受け師、ファンからは将棋の強いおじさんの愛称で親しまれている、木村一基九段のことである。
将棋と言えば藤井聡太、羽生善治の名前が浮かぶ方が多かろうが、私は将棋と言えば木村九段である。誰が何と言おうとそうなのである。
我が家には、木村九段の揮毫扇子二本(肉筆ではなく、印刷の安いものです)が防湿庫にしまわれ、揮毫湯呑が木箱に入れられたまま玄関に飾られている。今風に言えば推し、というのだろうか。単純にファンなのである。
2019年の第60期王位戦で、ご自身初となる王位のタイトルを獲得された。このとき、木村九段は46歳。これまでの初タイトル獲得最年長記録を8歳以上も更新し、木村九段は中年の星と言われ、度々メディアでも話題になった。私も木村王位誕生の瞬間を見て、歓喜した一人である。あのときの感動を思い出すと、今でも胸が熱くなってしまう。
その第60期王位戦、第五局でのことである。
対局場は徳島県にある旅館、渭水苑(いすいえん)。お庭が大変美しい高級旅館だ。
対局者は前日に対局場に入り、使う盤や駒、空調、照明など、問題がないか検分をする。夜には、関係者やファンを集めた前夜祭が行われるのがタイトル戦の定石だ。
このときの第五局の前夜祭で、登壇した木村九段はこんな話をされた。
ちなみに、2019年に王位だったのは当時名人だった豊島将之。その3年前、2016年に王位の座についていたのは羽生善治である。
2016年のタイトル挑戦のときにも、木村九段は渭水苑の百日紅を見て、
「あの花はなんですか」
と尋ね、3年後、木村九段はまた同じ質問をして、前回と同じように、
「百日紅です」
と言われてしまった。というお話だ。
文字だけで見ると、なんてことない話のように思えるが、これが木村九段が話すだけで何ともおかしいのだ。こちょこちょと耳をくすぐられて、こちらも思わず笑いがこみあげてしまう。実際このとき、会場からは笑いが起こっていた。
私は街中で百日紅を見る度に、この話を思い出す。
木村九段の、
「あの花はなんですか?」
と尋ねる声が聞こえ、
「百日紅です」
の一言だけで会場の笑いを誘った、あの温かな空気が胸の内に広がってくる。そして、何とも言えない、幸せな気持ちになるのである。
秋になり、涼しくなれば、長い百日紅の見頃も終わってしまう。
惜しむ気持ちもあるが、夏がくればまた、百日紅は明るい花を咲かせてくれるだろう。
その度に、
「あの花はなんですか」
そう尋ねる声が耳をくすぐり、私は何度でも、幸せな気持ちになれるのである。
※作中では登場する棋士の方々の敬称を省略させて頂きました。お読みいただき有難うございました。
2019年、木村王位誕生に泣いたエッセイがこちら。
木村九段はこちらの記事にも登場しています。
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