長芋はいいヤツだ
私は生で長芋や大和芋が食べられない。
納豆は好きなので、あのぬるぬるした感触が苦手なわけではない。残念なことに、私はぬるぬる系の芋を食べると、手や唇が痒くなる体質なのだ。だから私がぬるぬる系の芋を食べるときは、焼いたり、揚げたりすることが多い。
それに引き換え夫は、ぬるぬる系の芋が大好物だ。納豆やねかぶ、とろろ昆布なども好きなので、おそらくぬるぬるした食べ物は大抵、好物なのだと思う。
自分が食べられなくても、家族の好物となれば、やはり買い物かごに入れてしまうものだ。30センチ強のなかなか太い長芋が安かったので、買って帰った。
しかし、基本的に私は長芋を触りたくない。日常の炊事のせいで、手も荒れている。そこに長芋の粘液が塗り込まれたら最後、私は際限なく手を掻き続けることになってしまうだろう。それが急に厭わしくなり、私はひとまず長芋を新聞紙にくるんで保管することにした。
それからというもの、そろそろ買った長芋を調理しないと…と思いつつも、私は放置を繰り返した。二週間を過ぎた頃、
(ああ、本当にそろそろ食べないとな)
と思い、チラリと野菜室の長芋に目をやったものの、私はまたもや、ぬるぬるの厭わしさに負けた。それを最後に、私は長芋を忘却の彼方に追いやってしまったのである。
長芋のことを思い出したのは、つい数日前のことだった。
買い置きした野菜をあらかた食べ終え、そろそろ買い出しに行こうと、考えていたとき、
(そういえば、長芋どうしたんだっけ?)
と、その存在を思い出し、野菜室を探したが見当たらない。
(あれ? ダメになって捨てたんだっけ?)
そんなことを思ったが、30センチ強の長芋を丸ごと捨てたとなれば、記憶に残らないわけがない。私は周辺を探してみた。
すると、買い置きの日本酒が置いてある場所に長芋はいた。なぜ、冷蔵庫の野菜室から、そんなところに移動しているのか、全く記憶にない。長芋は、銘酒、鮎正宗と諏訪泉の一升瓶の間に挟まれ、ひっそりと出番を待っていた。私のせいなのだが、何だか長芋は居心地が悪そうで気の毒であった。
(もう、駄目だろうな)
そう思った。包んでいた新聞紙を開いたら、切り口が赤く染まって痛んだ長芋と対面することになる。そんな予感しかしなかった。下手したら腐敗臭も覚悟しなければならない。こうなってしまったのも、己の怠惰のせいなのだ。長芋の最期の姿をしっかり見届け、今後、こういった無駄をしないように肝に銘じよう。そう固く思い、私は長芋を包んでいた新聞紙を広げてみた。
するとどうだろう。
長芋は買ったときよりは、少し年老いた感は否めないが、痛みはほとんどない。むしろ熟成されて美味しくなったのではないか。そんな予感すらする。長芋が一升瓶に挟まれて眠っていたのは約ひと月。買い置きの野菜にしては、永い眠りであった。
その日、長芋を千切りにし、明太子と和えて海苔を散らした。夫はひと月も放置された長芋と知らずに、それをつまみながら日本酒を飲んでいた。
それにしても、長芋は本当にいいヤツである。
ひと月の間、腐らずに辛抱強く出番を待ってくれていた。長芋が新聞紙にくるまっていた間、我が家の食卓は、どれほどの野菜が登板していっただろう。新たに買った野菜に先を越された気配を感じていたはずなのに、長芋は愚痴一つこぼさず、ただただ出番を待ち続けてくれたのだ。
私は改めて、長芋に、
「ありがとう」
と感謝をし、
「君は本当にいいヤツだなぁ」
と言って新聞紙でくるみ、今度は、きちんと冷蔵庫の野菜室に入れた。
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