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「一泊二日」 第六話

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  ◇◇

 一瞬、時が止まった気がした。
 奥さんが放った  あの夫。浮気してるの。という一言が、頭の中でリフレインしている。身動きできずに固まっている私を見て、奥さんが、うふふと笑う。
「驚いた?」
 うなずくしかない。
「本当はね、この旅行も私とじゃなくて、浮気相手と来る予定だったらしいんだけど、それを、私が横取りしちゃったみたいなの」
「横取り?」
「そう。新幹線のチケットが見えるところに置いてあったから、これどうしたの? って訊いたら、サプライズ旅行だって言い始めて……。二人分のチケットだったから、出張だって言い訳したら、きっとバレると思ったのね。それに、私と一泊くらいの旅行だったら、仙台よりも、車でいける関東近県の宿を取ったと思うのよ。例えば群馬とか、伊豆とか。わざわざ仙台にしたのは、彼が昔、仕事で仙台にいったことがあるからなのよね。ビジネス街だからホテルもある。これが温泉旅館だったら、出張を装えないもの。それに、予約したホテルがツインだって聞いて、やっぱり彼女と来るつもりだったんだろうなって確信したの。普通、何人かで出張になったとしても、宿泊する部屋はシングルだと思うのよね。でもツイン。誰かいると思うのが自然でしょう? なーんて、やっぱりこじつけかしら」

 これだけのことを、一人で延々と考えていたのかと思うと、先程までの天真爛漫さは、奥さんの本心を隠す分厚い仮面のように思えてくる。

「実は、結構前からおかしいなって気づいてはいたの。私の勘が正しければ、たぶん三年近く付き合ってるはず」
「どうして、わかるんですか?」
 固唾を飲んだ。
「単純に、帰りが遅くなったっていうのもあるけど、妙に明るくなったのよ。それなのに、たまにため息なんかついている。決定的なのは、匂いかな」
「匂い?」
「夫でもない私でもない、家にない匂いをさせて帰ってくることがあるの。彼のシャツの匂いに、強烈な違和感があった日のこと、今でも忘れられないわ。それが三年前」

 初めて彼が、私のアパートに来たときのことだと思った。あの日、奥さんはすでに、自分の夫が他の女を抱いたことに気づいていたのだ。
「まぁ、でも今まで旅行は一度もなかったのよね。おかしな話だけど、それが彼にとっての、ちょっとした誠意なのかなって思ってた。だから、今回の旅行が彼女とじゃないかって思ったとき、やっぱりショックだったかな  でもね」
 奥さんは目を伏せた。

  でも、もっとショックだったのは、私が新幹線のチケットに気づいて、どうしたのか訊いたとき、あっさり、私といく予定だったって、言ったことなの。普通、彼女との旅行を楽しみにしているなら、もっと大事にチケットを扱うはずでしょう? でも彼はそうしなかった。一番見つかったらいけない、私の目の届くところにチケットを置いた。そのとき思ったのよね。彼の愛情って、どこにあるんだろうって。もしかしたら、ただ旅行にいきたかっただけで、相手は私でも彼女でも、どっちでもよかったんじゃないかしら」
「どっちでもいいだなんて……」
 私は思わず声を漏らした。
 そんなわけはない。だって洋平は、私のために旅行を計画してくれたのだから。

「もし私が彼だったら、新幹線のチケットを、見えるような場所には絶対に置かないわ。下手したらお風呂にだって持っていくわよ。それに、前日まで会社に置いておいたっていいじゃない。大事なものなら、そこまでするものよ」
 私も、洋平が新幹線のチケットをおざなりに扱ったことが、どうしても解せなかった。そんな思いが、私を仙台まで連れてきたと言ってもいい。
「もしバレたら、私といくつもりだって言えばいい。きっと最初からそう思ってたのよ。私が、このチケットは何? って訊いたら私といく、訊かれなければ、彼女といく。それくらい、彼の中ではどっちでもいいことだったんじゃないかしら」

 どっちでもいい。
 そんな風船のように軽い言葉が、私の胸の中でずっしりと重く垂れ下がった。
「そう思ったとき、私、会ったこともない彼の浮気相手と、手を取り合って泣きたいような気持ちになった。あの人は、私でもあなたでも、どっちでもいいと思ってるのよ。私たちって、一体何なんだろうねって、抱き合って泣きたいような気持ちになったの」

 奥さんの大きな目が潤んでいる。
 その瞳に気圧されながらも、今ここで、私が奥さんの手を取ったら、どうなるだろう、などと思う。実は私がその浮気相手なんです、ごめんなさい、と言って涙したら、奥さんは、私と一緒に泣いてくれるだろうか。
 そう思ったら、奥さんの白い手を握りたくてたまらなくなった。でも、実際そんなことをすれば、くさいお芝居みたいになって、白けるに違いない。私は両手をグッと握りしめ、感傷に飲まれそうになる自分に耐えた。

「でも、不思議よね。好きなものが同じだと、気の合ういいお友達になれるのに、好きな人が同じだと、友達にはなれないんだもの」
 奥さんは、ため息をつきながら、ハートチップルに手を伸ばす。私も同じように手を伸ばした。パリパリと、二つの音が重なる。その乾いた音を聞くうちに、なぜ奥さんが、三年も黙って浮気を見過ごしているのかを訊いてみたくなった。

「どうして、旦那さんに浮気のことを問い詰めないんですか?」
 奥さんは遠い目をすると、
  浮気されても仕方ないって思ったからかな」
 そう言って、小さくため息をついた。

「私の父は、最初、夫との結婚に反対してたの。彼はまだ若かったし、私より年下だったから、頼りなく見えたのね。最終的に、彼が父の会社を継ぐことを条件に結婚を認めてもらったんだけど、彼は、今の会社を辞めたくないみたいでね。私も社員として、父の会社を支えてきたから、ゆくゆくは夫に継いでもらいたい気持ちがあって……。でも、無理強いして、うまくいくわけない。スパッと諦めて、彼の気持ちを優先してあげればよかったのに、私は、夫と父のどちらかを選ぶことなんてできなかった。夫にも父にもいい顔して、いろんなことを曖昧にして逃げてきたの。  たぶん、その罰が当たったんだと思う……」
 下腹部に両手を置いた奥さんは、苦しそうに言った。
「私、病気になって子供が産めない体になっちゃったの」

 つけたままになっているテレビから、タイミング悪く、ドッと笑いが起こった。消してやろうかと思ったけれど、無音になるのも何だか怖いような気がして、そのままにした。

「これで、もう離婚かな、と思ったけど、彼は私から逃げなかった。優しいわよね。でもきっと、口には出せない、やりきれない思いがあったと思う。不倫相手の彼女は、私より若くて健康な子。きっと子供も産める。今、彼に浮気を問い詰めたら、捨てられるのは私のほうだと思った。彼と別れたら、こんな私に寄り添ってくれる人なんて、もういないかもしれない。そう思うと怖かったの」

 私は内心、激しく動揺していた。
 洋平がそんな事情を抱えていたことを、私は、何ひとつ知らなかったからだ。それは、彼が私と三年も付き合っていながら、自分のことを何も話してくれなかった証拠でもある。
   子供が欲しいから君と結婚したい。
 その一言を言ってもらえなかったことよりも、心の内を見せてもらえなかったことのほうが、ずっとショックだった。

 洋平にとって、私は一体どんな存在だったのだろう。会いたいときに会って、抱きしめることのできる、ただのお人形だったのだろうか。そんなことを考えていると、自分の存在の希薄さを思い知らされるようで、つらかった。こんな悶々とした気持ちなのに、奥さんの手前、泣き喚くこともできない。

 そう思っていると、テレビからまた笑い声が聞こえてきた。何がそんなにおかしいのだろう。憎々しい気持ちで、今度こそ消してやろうと思ったら、
「ふふ……」
 奥さんがテレビを見て笑った。

 テレビはずっとついたままだったが、私と奥さんはそれを見ていない。何をしているのか、どうして笑っているのか、わからないはずなのに、奥さんは笑っている。テレビの中の人たちにつられて、無感情のままに笑っている奥さんを見ていたら、今まで感じるのを避けてきた罪悪感が、じわじわと胸の内に広がるのを感じた。

 テレビからは、この状況に不釣り合いなほど、賑やかなコマーシャルソングが聞こえてくる。呑気な歌を耳にしながら、私は唐突にこんなことを思った。
「あの、もしかしたら……」
「ん?」
 奥さんの視線がテレビから外れ、こちらを向く。
「新幹線のチケット、置きっぱなしにしたんじゃなくて、わざと置いたんじゃないでしょうか」
 私の言葉に、奥さんは目を見開いた。
「何のために?」
「チケットを見つけてもらうためです」
 小心者で用心深い洋平が、新幹線のチケットを、うっかり置きっぱなしにするとは考えにくい。  うっかりの反対語は、わざとだ。

「きっと、土壇場になって、浮気相手と旅行にいくのが、いやになったんですよ。引き返したくなったっていうか  要はドタキャンしたくなったんだと思います。由比子さんにチケットを見つけてもらえば、浮気相手には『妻にチケットが見つかった』って言い訳できますし、それに見つけてもらったほうがサプライズ旅行っぽいじゃないですか。  あの、なんていうか、こじつけかもしれませんけど」

 調子よく、旅行にいこうと言ってはみたが、やはりリスクはある。洋平は、日を追うごとに気が重くなっていったのだろう。でも、ワンピースやキャリーバッグを買って盛り上がる私を見て洋平は、やっぱりやめよう、とは言い出せなかった。チケットをテーブルに置きっぱなしにしたのは、彼なりの苦肉の策だったのかもしれない。

 とはいうものの、これは私の想像でしかない。洋平の気持ちは、洋平にしかわからないし、私は彼の気持ちを想像して、こういうことかもしれない、と思うしかないのだ。
 彼の気持ちを、勝手に考えて、私自身が納得する答えを、自分で見つけ出していく。
 考えてみれば、この三年間ずっと、私はそんなことを繰り返してきた気がする。恋をするということは、もしかしたら、こういった自作自演の連続なのかもしれない。

「旦那さんは、浮気相手よりも、由比子さんのほうが大事なんだと思います」
 私の口から自然と、そんな言葉がするりとこぼれた。
 私にとっては、かなしいことだけれど、これは、こじつけではなく、たぶん、本当のことではないかと思う。
 十個別れる理由があっても、たった一個、離れられない理由があれば、人は別れることができない。私の両親がそうであったように、きっと、洋平や奥さんの間にも、そんな一個があるのかもしれない。その一個が一体何なのか、私には到底、知りようもないことだ。

 しかし、奥さんは、私の言葉をただの慰めととらえたらしく、
「ありがとう。まなみさん、やさしいのね」
 そう言って穏やかに微笑んでいた。嬉しいような悲しいような、どっちともつかないような表情でうつむく奥さんを見つめながら、私は降って湧いたように、
 ああ、終わった。
 と、思った。

 すると、なぜか羽が生えたように、急に体が軽くなった。もう洋平のことで悩まなくていい。そう思ってビールを一気に飲み干すと、更に体が軽くなった気がした。

 私はチューハイを手に取り、プシュッと缶を開けた。ゴクゴクと二口ほど飲んだら、どうやら口まで軽くなったらしく、
「お父様の会社、由比子さんが継ぐことはできないんですか?」
 そんなことを、サラッと訊いていた。
「え?」
 奥さんの動きがピタリと止まる。そんなこと考えたこともない、といった様子だった。
「だって、ずっとお父様と一緒に仕事をしていたなら、旦那さんよりも、由比子さんのほうが後継ぎに相応しいんじゃないですか?」
「私が?」
「はい」
 奥さんの顔に、赤みがさした。
「そんなこと言われると  やってみたくなるわね」
 その表情は生き生きとしている。
「父に、おまえが? なんて言われて、笑われるかもしれないけど  
 奥さんは照れくさそうに笑った。
「いいじゃないですか。笑われても」
 私が言うと、
「そうよね、いいわよね。笑われても」
 奥さんは、うんうん、うなずいた。
 私たちは、顔を見合わせて笑った。とてもいいことがあったような顔をして、ふふふと楽しく笑った。

「ねぇ、一緒に写真を撮らない?」
「写真ですか?」
「そう、せっかくだから、記念に撮りましょうよ」
 そう言って奥さんは、
「スマホ、スマホ」
 とつぶやきながら、バッグの中をゴソゴソし始めた。
「やだー」 
「どうしました?」
「スマホが見当たらないのよー」
 確か、奥さんのスマホを最後に触ったのは私のはずだ。
「たぶん、お部屋だと思いますよ。私、テレビのサイドテーブルに置きましたから」
 洋平がよろけたとき、咄嗟に支えようとして、持っていたものをテレビのサイドテーブルに置いたのだ。
「あー、置いてあったかも。私ったら、バッグだけ持って、スマホを置いてきちゃったのね」
「私のでよければ撮りましょうか」
 私はスマホを手に取った。

 私と奥さんは顔を寄せ合い、腕を伸ばして自撮りをする。大袈裟なシャッター音が部屋に響くと、フラッシュが、閃光のようにピカッと光った。
「撮れました」
 スマホの画面には、ほろ酔い加減の二人の顔が浮かんでいる。
「あらやだ、二人とも顔が赤いわね」
「そうですね」
「じゃあ、明日、朝食会場で写真のデータをやり取りしましょう。えーと、私は七時くらいにいくつもりだから  
 奥さんが腕時計を見て、飛び上がる。

「やだ、もうこんな時間!」
 時計を見ると、午前零時を回っていた。
「うわー、遅くまでごめんなさいね」
「いいえ」
 奥さんがバッグを持って、慌てて立ち上がる。私がドアの前まで見送ると、 
「まなみさん……」
 立ち止まり、何か言いかけようとして、私を見つめた。
「はい」
 私が返事をすると、奥さんは、何でもないわ、という顔をしてニッコリ笑い、
「おやすみなさい」
 そう言って、バイバイと手を振って、自分の部屋に戻っていった。

 重たいドアが閉まると、小さく絞ったテレビの音しか聞こえなくなった。画面を見ると、見たことのないドラマが始まっている。適当にチャンネルを変えると、ニュース番組のお天気コーナーをやっていた。
 今日の仙台は晴れ。
 そんなアナウンスが聞こえてくる。
 終わりかけのニュースを見ながら、食べ残したおやつや、缶を片付けた。コンビニの袋の中には、手付かずの口臭予防のタブレット二つと、小さな瓶が入っている。何だろうと思い、その瓶のパッケージを見ると、
《肝臓エキス》《ウコンエキス》
 などと書いてある。二日酔い対策用のドリンクだった。
 たぶん、奥さんが泥酔している洋平に飲ませるために買ったのだろう。
 その瓶を見ながら、そうか  と思う。
 何に納得しているのか、自分でもよくわからなかったが、瓶を手にしながら、思わず、
「夫婦かぁ……」
 私の口から、そんなため息のような言葉が漏れた。



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